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「天津永世の伝」

「天津永世の伝」
白川神道の行法の一つに「天津永世の伝」と呼ばれるものがあります。「息吹永世の伝」とも呼ばれています。これは無声の祓です。重要な神事の前に行います。神殿で先ず正座して目は半眼にして前方1mぐらいを見て、静かに鼻から息を吸い込み口から細く吹き出します。臍下丹田の呼吸法です。

一見簡単に見えますが、なかなかリズムを取るのに難しいです。白川家の門人であった井上正鐵(まさかね)は、その著「神道唯一問答書」の中で「御祓は務めやすく、永世の伝はつとめがたく候」と述べている通り彼も苦労したのでしょう。

実際に「天津永世の伝」を行う前と終わった時の血圧測定しますと血圧は下がります。「天津永世の伝」を行うと「心の禊」ができ、すかすがしい境地になり、「神気」を自覚することが出来ると伝えられています。

平成29年11月23日午前7時に「新嘗祭」を斎行しましたが、その1週間前から斎戒します。毎夜7時前後、夕拝時に「天津永世の伝」を行いました。「天津永世の伝」は無声の祓いですが、「新嘗祭」を控えているので和久産巣日神(わくむすひのかみ)」を何回も心で唱えながら呼吸法を行いました。和久産巣日神は農耕で豊穣をもたらす生産の神さまです。

新嘗祭が終了しますと、今度は三島由紀夫大人命、森田必勝大人命の野分祭を三重県四日市市で執り行わなければなりません。11月24日の夕拝から「天津永世の伝」を行いました。自決された森田さんの墓前で野分祭を斎行するのですから、呼吸法をしながら「なぞてすめろぎは人間となりたまひし」を心の中で唱えました。

そして11月25日正午、森田必勝大人命の墓前で47回目の野分祭を斎主として斎行しました。たかが墓地は一片の石ではないかと言われるかもしれません。その一片の石から歴史を変えさせるのが私の斎主としての役目です。

神戸市の湊川神社の境内にある楠木正成の墓碑があります。その墓碑が明治維新を成し遂げたのです。明治維新の成し遂げた若き志士たちの多くが楠公を敬慕したのです。楠公の「七生まで同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさん」という最期の言葉から「死生観」を学びとったのです。

吉田松陰先生、西郷隆盛、真木和泉守、楠公の墓に参り自分たちの志を励まし勇気づけたのでした。楠公の墓碑には「神州正気の精」が鎮められているのです。

森田さんと三島先生が言いたかったことは「天皇国日本を護る」ことだと思います。そのことから「護国の鬼」として、生きても亡くなっても働けるようにと魂魄をこの世に留めてくださいと祝詞で奏上させてもらいました。
 

先生と森田必勝さんには死して死なない「神州正気の精」があります。先生の檄文を見れば分かります。
 
今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。
それは自由でも民主主義でもない。日本だ。
われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。

この最期の言葉を「死ぬことによって生きかえる」ように神事で行いました。これが白川神道の真髄です。先生も森田さんも我が国の危機においてこれからも蘇ってきます。すでに蘇っておられます。森田さんの慰霊碑は一片の石からできていますが、そこには「神州正気の精」「七生報国」の「霊魂」が宿り、志を継ぐものに勇気と活力を与える場所となります。そして日本を歴史と伝統の国として復活させてくれます。

これから若き志士たちが目覚める時代です。




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47年の野分祭

47年の野分祭
昨日の平成29年11月25日土曜日正午から三重県四日市市大治田にある霊園で森田必勝さんの47年目の野分祭を斎主として斎行しました。今回は主催の三島・森田事務所から大阪市の鶴見神社宮司を斎主として自決された森田必勝大人命の墓前で野分祭を、同時刻に横浜市鶴見区鶴見の鶴見神社では金子宮司を斎主として三島由紀夫先生の慰霊祭、野分祭を同時に斎行する、と言うことに決まりました。

思えば昭和45年11月25日当時、私は20歳、森田さん25歳、三島先生は45歳でした。
東京は市ヶ谷の自衛隊駐屯地で先生と森田さんが自決されたのは47年も経ちますが、先生の檄文の言葉や森田さんの志は決して忘れることはありません。

当時、私も楯の会に入会するために三重県久居市の陸上自衛隊第10師団第33連隊に入隊し訓練を受けていました。楯の会事件が起きていなかったら森田さんの勧めで楯の会に入っていました。

男の私が言うのもおかしいけれども、森田さんは笑顔がとてもかわいい人でした。よくサントリーレッドをコーラーで割って飲み憲法改正して自衛隊の国軍、自主憲法・自主防衛の話しを聞かされました。森田さんは、ハイライトを吸われていましたが、先生と違いタバコの本数は決められていました。先生は缶ピースを好まれ大変なヘビースモーカーでした。生きておられたら先生は肺がんになられていたのではないかと思います。

森田さんは少々肥満気味で、あるときなど「タバコをやめたら太るし新聞配達のアルバイトもしたけれどやせない。花谷、どうすればお前みたいにやせられるのか」。当時、私は森田さんの悩みは肥満だと思っていました。まさか昭和45年9月ごろ、「墓参りに四日市に来ている」という電話が最期になるとは思いませんでした。

あの時に伊勢市から四日市まで出かけて森田先輩と会っていたら、と随分悩みました。

私は森田さんのことを先輩とお呼びしていました。そのことから森田さんと一番親しいくされていた伊藤好雄さんのことを今でも先輩と言っています。亡くなられた元楯の会の阿倍勉さんや持丸博さんも先輩と呼んでいました。

今年の8月、元楯の会の勝又先輩と伊藤先輩が当社に来られ、横浜の鶴見神社では主に三島由紀夫大人命の野分祭、四日市市大治田の慰霊碑では森田必勝大人命の野分祭を大阪の鶴見神社の宮司が斎行してほしい、と言うことでした。横浜の鶴見神社も大阪市の鶴見神社も兄弟関係同様なので承諾しました。「身罷った森田と宮司は親しかった」ということも言われましたので11月25日の土曜日は鍼灸の治療は休診としました。患者さんには申し訳ありません。また七五三の参拝が多いのなか、私を含めて2名の神職がいなくなるのですから、禰宜の息子には申し訳ないと思っています。

47年祭、野分祭を斎行するために、昨日は午前10時20分に森田家の墓前と森田さんの慰霊碑の前に到着し、神事の準備をしました。私を含めて神職2名の神事です。野分祭を執り行うために装束の着装の場所が必要となります。そのため森田さんのお兄さんの家で装束の着装をさせていただきました。そのときに仏壇にもお参りさせてもらいました。

私は「斎服」(さいふく)に冠(かんむり)、当社の神職は「浄衣」(じょうえ)に烏帽子(えぼし)を被り、野分祭を斎行しました。ただ森田家から慰霊碑まで自動車に乗せてもらいました。

森田さんの慰霊碑の前には元楯の会会員、伊藤先輩を含んで18名と警視庁の公安警察1名が参列されていました。野分祭は時間通り正午に斎行しました。

私が鶴見神社宮司として自決された先生や森田先輩の慰霊祭を斎主として斎行するとは考えもしなかったことです。野分祭終了後、森田家のご好意で自宅の仏壇の前で直会(なおらい・共飲共食儀礼)となりました。

直会終了後、元楯の会の三宅孝生先輩の津市にある店で懇親会を開催しました。午後5時から午後7時まで飲みました。先輩たち、50年目の野分祭まで長生きをして下さいね。


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神宮は聖地

神宮は聖地
ウィキペディアから聖地の意味を検索して記載します。

聖地(せいち、英語: sacred place, holy ground, holy site、ヘブライ語: הארץ הקדושה‎)とは、特定の宗教・信仰にとっての本山・本拠地・拠点となる寺院・教会・神社のあるところ、またはその宗教の開祖・創始者にまつわる重要なところ、あるいは奇跡や霊的な出来事の舞台となったところをいう。

エルサレムには3つの聖地があります。キリスト教の聖地「ゴルゴタの丘」・ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」・イスラム教の聖地「岩のドーム」です。それもあまりにも近すぎる所に聖地があります。

「ゴルゴタの丘」について新約聖書には、ここで弟子のイスカリオテのユダの裏切りを受けたイエス・キリストが十字架に磔にされたと書かれています。そして「聖墳墓教会」が建てられ、キリストの墓がある、とされています。キリスト教の聖地ということになります。

ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」は、ユダヤ人の祖先であるアブラハムが、旧約聖書の中で神から信仰心を試され、そして信頼を獲得するというとても重要なシーンの舞台なのです。

イスラム教の聖地「岩のドーム」の他に2つの聖地があります。生誕の地「メッカ」と
.次に移動した「メディナ」です。

「岩のドーム」はムハンマドの昇天伝説の地に建てられ、イスラーム教の聖地とされています。

キリスト教・ユダヤ教・イスラム教 という三つの宗教の聖地がエルサレムに集中しているのです。

一度、エルサレムに行って見たいと思っています。

神道の聖地はやはり伊勢の神宮です。国内にあまたある神社の頂点に立つ神社、いわゆる「総社」であり、正しくはただ「神宮」というのが、正式な称号です。そしてそれは、皇大神宮である内宮と、豊受大神宮である外宮を中心とする、125社の神社群の総称です。つまり、境内の別宮、摂社・末社に至るまで、すべて「神宮」なのです。

神さまへのお供え物を神饌(しんせん)といいますが、現在、神社でお供えされる「神饌」のほとんどは「生饌」(なません)です。それに対して、調理して供える神饌を「熟饌」(じゅくせん)があります。神宮の熟饌の調理には「忌火(いみび)」と呼ばれる清浄な火を使用しています。「忌火」は木と木を擦(す)りあわせる「舞錐式発火法(まいきりしきはっかほう)」により、火をきりだす「御火鑚具(みひきりぐ)」を使用しています。

内宮、外宮ともに、神さまの台所である忌火屋殿で御火鑽具を用いて清浄な火をきり出し、この火を使ってお供えものを調理します。

外宮のご祭神が、御饌都神の豊受大御神さまであることから、外宮のみにある御饌殿(みけどの)では、毎日朝夕の2度、天照大御神さまをはじめ、豊受大御神さま、各相殿神(あいどのかみ)、各別宮の神々に大御饌(おおみけ)をたてまつられております。

このお祭りを「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうのおおみけさい)」といい、禰宜(ねぎ)1名、権禰宜(ごんねぎ)1名、宮掌(くじょう)1名、出仕(しゅっし)2名により奉仕されます。もちろん御火鑚を使用して神饌を調理します。

伊勢の神宮の日別朝夕大御饌祭は、1500年もの昔から、1年365日、雨の日も風の日も欠かさずに、朝夕2度、神饌をお供えするお祭りがなされています。

「悠久」という言葉が神宮にあります。しかも国家の反映と世界の平和を祈る場所でもあるのです。神宮は日本だけではなく、世界の神宮だと思います。

また神宮にはエルサレムも三つの聖地と違い、自然に満ちています。自然はたくさんの恵みを与えてくれるありがたい存在ですが、恐ろしい反面も持ち供えています。我々日本人の先祖は自然界の一つ一つの働きに神さまの何か大きな力の働きを感じて「ありがたい」し「恐れ多い」と思ってきました。そこから発生したのが万物に「感謝と祈り」の精神と生活です。

またキリスト教・ユダヤ教・イスラム教の一神教ではないので、仏教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒・イスラム教徒でも受け容れてくれます。一神教の信仰者からみれば「日本人の宗教心は何といい加減な」と思うでしょうが、日本人にとってはそれがおかしなことでも何でもない、ごくごく普通のことになっています。

平安末期の僧侶であり歌人で有名な西行は伊勢の神宮にお参りして、このような歌を残しています。

なにごとのおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼれる

また吉川英治さんが、お伊勢さんにお参りし、その感動を詠んだ歌があります。

ここは心のふるさとか そぞろ詣れば旅心 うたた童にかへるかな

昭和42年(1967)に来日されて神宮に参拝に来られた英国の歴史家アーノルド・トインビーは

この聖地において、私くしは、すべての宗教の根底に潜む統一性を見出す

と気帖しています。



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紀元二千六百年

紀元二千六百年

今日は平成29年11月10日です。77年前の今日、昭和15年1940年(1940)11月10日、宮城前広場において昭和天皇・香淳皇后臨席の下に内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催されました。

当時、我が国では11月14日まで全国各地で神事や祝賀会、記念行事が繰り広げられました。当社でも盛大に式典が行われ、大阪市の役員たちが出席し、「万歳旛」を2対寄進されました。今では一宗教法人に公共機関が寄進することはないですね。

ところでお正月の年賀状に、私の友人たちは「皇紀2677年元旦」、「皇暦」で年号を書いてきます。そもそも「皇紀」とは、明治5年(1872)に制定された日本国独自の日本紀元です。

世界中にはバビロニア暦・ユダヤ暦・ヒンドー暦・イスラム暦・仏滅紀元等が残っています。世界中で使用されている西暦はイエス=キリスト生誕年を基準として年代を数える西暦の紀年法です。525年に考案されイスラム圏を除きほぼ世界共通の紀年法となっています。

イスラム圏では、開祖ムハンマドが迫害により、故郷のメディナに脱出した西暦622年7月16日をもってイスラム歴元年とするヘディラ紀元があります。タイでは仏歴が採用され、西暦に543年を足したものになっています。

「皇紀」を計算するのは簡単です。西暦に660をプラスすれば「皇紀」が分かります。例えば来年は2018年です。2018+660=2678になります。来年は皇紀2678年です。
建国されて2678年となります。それではわが国は紀元前660年に建国されたことになり、皇紀元年は紀元前660年です。

それではなぜ、紀元前660年に建国された理由は何処にあるのか、と言うことになります。その理由を説明します。

推古天皇の時代の辛酉(かのととり、しんゆう)の年は西暦601年です。聖徳太子が活躍された時代です。その時代、中国の讖緯説(しんいせつ)が我が国に影響を与えました。讖緯説とは大きな革命が21回目の辛酉の年、1260年に一回来るという考えをもっていました。

今年は2017年は丁酉年(ひのととりどし)です。来年の2018年は戊戌年(つちのえいぬどし)です。十干十二支で言えば同じ丁酉年は60年後の2077年に、戊戌年は2078年にめぐってきます。60年一度、元に戻るのが十干十二支です。今年生まれた子供が60年後の丁酉年に行うのが還暦のお祝いです。元に戻ったという意味でのお祝いです。

讖緯説は辛酉の年が21回めぐるときですから、21×60=1260と言うことになります。

その時代、聖徳太子は我が国の歴史書を編纂する事業に取り込んでおられました。歴史書は年代が必要です。推古天皇は33代の天皇です。推古天皇の辛酉の年、西暦601年から1260年前を引くと辛酉の年が初代天皇の神武天皇が即位式された年数になるようにしたのです。それが紀元前660年になります。

ところが前述した推古天皇は推古天皇は33代の天皇です。32代までの天皇の1260年という期間に当てはめながら遡ったために、最初の方の頃の天皇は年齢が100年以上くらい生きている計算になってしまいました。初期の天皇の年齢がカサ増しされたのでしょう。

歴史的事実からすれば皇紀元年がいつかは正確にはわかりえないということになります。文字で記録されていないから、あてにならないという考えもあります。当時は神話のような伝承で伝えられたのです。今との人は文字やPCで残せますが、記憶力は衰えてきます。

その時代の語部は想像以上に記憶伝承されているのです。

西暦の紀元となっているキリストの生誕ですら賛否両論があります。2017年前に生まれたという説が主流というわけではないです。しかし日本のすごいのは歴史的事実ではないけれど、天皇陛下がおられ、昔ながらの宮中祭祀を執り行われていることです。しかもそれが今も続いているのです。

日本人のご先祖を求めると神話につながってしまわざるを得ない不思議な国なのです。我が国の紀元が正確にわからないほど古い国、それが日本の国柄というものです。それも世界最古の皇室と国民が共に歩んでできた国なって凄いと思います。

それで77年前の今日、皇紀2600年祭が行われたのです。

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10月のブログを更新できなかった理由

10月のブログを更新できなかった理由
10月はブログを更新させていません。皆さんから入院されたのか、病気になられたのか、問い合わせが相次ぎました。確かに10月14・15日は当社の秋の大祭があり潔斎しなければなりませんが、しかしブログを更新できない理由ではありません。

実は今年の夏に野分祭(のわけさい)の斎主を依頼されました。野分祭は昭和45年11月25日に自決された三島由紀夫先生、森田必勝さんの慰霊祭のことです。

野分祭は平成29年11月25日、土曜日・正午、三重県四日市市大治田にある森田必勝さんの墓前で執行することになっています。そのことがありブログを更新でないほど、10月初旬より先生や森田さんを犬死させてしまったのか、47年間自分は何をしてきたのか、という問題に直面し悩んでしまったのです。

しかし何はともあれ野分祭を引き受けたのであるから野分祭の祝詞を作成しょうとすると涙が流れて思うように進めないのです。

平成5年11月25日の奈良県天理市の大和神社に執り行われた野分祭(二十三年祭)の斎主のときも同じ状態でした。

「楯の会事件」、若い人たちには知らない出来事でしょう。また遠い過去の事件ですから当然です。しかし私にとっては大きな出来事でした。

昭和45年11月25日、三島由紀夫先生が自ら組織された「楯の会」のメンバー、森田必勝さんを含めて4名で東京都新宿区市ヶ谷にある陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れて東部方面総監を監禁、自衛官を集合させて「日本を守るとは何だ。日本を守るとは天皇中心とした歴史と文化を守ることなのである」といって先生がクーデーターへの決起を促す演説をされました。

しかし自衛官からヤジを浴び相手にされず、演説をやめて先生は総監室にもどり「楯の会」の学生長の森田さんと自決された事件でした。残る三人は逮捕されました。

自決当時、私は20歳、三重県伊勢市の皇學館大学の学生で国防研究会に所属していました。森田さんは25歳、三重県四日市市の出身で2浪されて早稲田大学の教育学部へ入学されていましたが、自決当時は退学されていたと思います。

昭和44年5月に民族派の学生組織、全国学生自治体連絡協議会(通称全国学協)の大会が東京都の九段会館が行われました。私は参加するつもりで上京しました。泊めてもらうところがないので楯の会1期生の阿倍勉さんに連絡をしたところ「俺のところはだめだ、森田のところへ行け」といわれたので新宿の森田さんのところに世話になったのがご縁でした。

伊勢市から来たということもあり、また森田さんは早稲田大学の国防部に所属されていたこともあり、心情的にも共通する点もあって文通することになりました。昭和45年1月、森田さんからの年賀状をもらいましたが、「俺の恋人、誰かと思う。神が作った日本国、今年もよろしく」」と言うものでした。昭和45年9月中旬だと記憶していますが、森田さんから電話で「今、四日市に墓参りに来ている」というのが最後のでした。
 
そんなこともあって昭和45年11月25日の自決は人生最大の衝撃を与え、そのショックでどのような学生生活をすごしたのかはあまり思い出せないのです。同級生に聞くと武闘派の民族派として新左翼系の全学連に殴りこみをかけたり、一人一殺を標榜したりして公安警察にマークされていたと言う事でした。

ただ「楯の会」事件の裁判のことは記憶にあります。昭和46年3月23日、第1回の楯の会事件の公判が東京地裁で行われました。何度か上京し渋谷にあった全国学協の事務所に泊めてもらい、委員長の吉田良二さんから「大丈夫か、過激なことは慎むように」と何度も注意されました。そのことは覚えています。

第10回公判のときに森田さんのお兄さんを初めて見ました。当時は中学校の教師をされていたと思います。第17回公判、昭和47年3月23日、開廷まもなく最終弁論が始まろうとする時に吉村さんともう一人が「裁判長の陽明学は偽者だ」と叫んで退廷されました。
裁判長から「今後、同様の発言したら処罰する」と警告したのですが、私は「裁判長を訴追するぞ」と発言した瞬間、坪井一夫先生の門下が私に続き4名ほど大声で叫び私たちは拘束退廷されました。吉田良二さんの恐れていたことが起こりました。

私は今年で67歳になります。47年間、森田さんのことは忘れたことがありません。亡くなった三浦重周が毎回「憂国忌」の案内を電話や文面で連絡してくるのですが、何もできない自分が恥ずかしいので断ってきました。

ただ平成5年11月25日の23年祭の野分祭と今回も同様、斎主としての依頼なので引き受けさせてもらいました。ここは自決された先生と森田さんへの感情を抑えて祝詞の内容を考えて作成しょうと思っております。前回の野分祭のときは吉田松陰先生の辞世の句を吟じて祝詞が作成できました。

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

今回の平成29年11月25日の野分祭に向けての祝詞作成は西郷隆盛先生の「獄中感有り」を吟じて書いています。

朝に恩遇を蒙り夕に焚坑せらる
人生の浮沈 晦明に似たり
縦(たと)い光を回さざるも葵は日に向こう
若し運開くなくとも意は誠を推す
洛陽の知己 皆(みな)鬼と為り
南嶼(なんしょ)の俘囚 独り生を窃(ぬす)む
生死何ぞ疑わん 天の付与なるを
願わくば魂魄を留めて皇城を護らん





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長屋王の邸宅跡地

長屋王の邸宅跡地

昭和63年(1986)8月、奈良そごう工事現場(現イトーヨーカドー奈良店)から長屋王(684年~729年)の邸宅跡と考えられる10万点にのぼる多量の「木簡」が発掘されました。それを「長屋王家木簡」と言います。発掘調査は奈良国立文化財研究所が行いました。

出土した木簡に記された文字の中に、加須津毛瓜(かすつけうり)、醤津毛瓜(ひしおつけうり)という文字が記されていました。この中の「津」は、ひたひたの状態を表し、ドブロクの上澄みを酒として飲み、 下に溜まったドロドロした中に塩漬した野菜を漬け込んだものではないかと考えられ、奈良漬の原型ともいえるものがあったと思われます。

当時のお酒は、濁り酒といってドロドロしていたお酒であったので、その中に塩漬した野菜を漬け込んだのではないかと考えられます。

しかし長屋王が飲まれていたお酒は「長屋王家木簡」から知ることができました。左大臣長屋王の邸内の酒司(さけのつかさ)・御酒醸所(おんさけかもしどころ)には甑(みか)が据えられており,それらの甑のいくつかには甑ごとに酒の仕込配合が録されていました。赤米やこうじ、水の配合が異なる6種類の酒が記されていました。ドブロクの白酒ではなく、赤い色の清酒に近いお酒を長屋王は飲まれていたのです。

「日本書紀」には都祁(つげ)の氷室(ひむろ`の起源説話があり、夏に長屋王が氷を入れた酒を楽しんでいた、といわれています。  

ところで長屋王は天武天皇の長男高市皇子(たけちのみこ)の子で、母は天地天皇の皇女、御名部皇女(みなべのひめみこ)。妻は吉備内親王(きびないしんのう、草壁皇子と元明天皇の次女)です。

長屋王は、神亀元年(724)に最高職の左大臣に就任し、聖武天皇を盛り立てて政治を行なっていました。神亀6年(729)2月10日、皇位継承にからみ、謀反の疑いで館を囲まれ、夫妻と四人の皇子が自害に追い込まれました。世に言う長屋王の変です。

この変は、藤原不比等の四人の息子、武智麻呂・房前・宇合・麻呂が仕組んだという陰謀説だといわれています。8月に天平と年号が変わり、藤原不比等の娘、光明子が皇后となり皇族以外から立后された最初の例となりました。

「万葉集」に長屋王一族の死を哀れんだ倉橋部女王(くらはしべのひめおおきみ)の詠まれている歌があります。倉橋部女王は「万葉集」の中にしか出てこない女性なのです。従いましてどんな女性なのか、はっきりはわかりません。

「万葉集」が編集された当時は、無実の罪で自害に追い込まれた長屋王への同情は、自分身も危険なことだったにちがいありません。それで、わざと作者の名前を偽名を使ったと思います。長屋王に近いお方だと考えられます。

神龜六年己巳、左大臣長屋王の死を賜はりし後、倉橋部女王の作る歌一首

大君の 命畏み 大殯の 時にはあらねど 雲隠ります(巻三 441)

解釈しますと、恐れ多くも大君の命により、まだその時期でもないのにお隠れになってしまわれた、となります。

次に膳夫王(かしわでおう)は、左大臣・長屋王の長子で父子と共に自害されたれたことを悲しんで作られたものですが、作者いまだ不明ですが山部旅人といわれてます。

膳部王を悲傷する歌一首 

世間(よのなか)は 空しき物と有らむとそ この照る月は満ち闕(か)けしける(巻三 442)

解釈しますと、世の中は 空しいものだ。まるで決まったように、この照る月が満ち欠けするようだ、となります。

現在、長屋王夫妻のお墓が奈良県生駒郡平群町にあります。

前述しました通り、長屋王の邸宅跡は百貨店「奈良そごう」が開店しましたが経営が上手く行かず閉店し、平成15年7月、イトーヨーカドー奈良店が開業しました。全国のイトーヨーカドー店舗としては最大規模だったそうです。その後、郊外型の大規模商業施設「イオンモール大和郡山」(大和郡山市)などが相次いでオープンすると、客足を奪われて、今月の9月10日で閉店しました。

インターネット上では「長屋王の呪い」ではないかと、本気とも冗談ともつかない書き込みが多く出ています。

私は「奈良そごう」の時代に、回転展望レストランがあり、よく食事に行きました。閉店したイトーヨーカドー奈良店に代わってショッピングセンター「NARA HEIJO PLAZA」(仮称)として平成30年春の全面リニューアルオープンを目指し改装工事が進められているそうですが、回転展望レストランの復活を願っています。




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緊張と緩和について

緊張と緩和について
直会(なおらい)とは、祭りの終了後に、神前に供えた御饌御酒(みけみき)を神職をはじめ参列者の方々で戴くことをいいます。

古くから、お供えして神々の恩頼(みたまのふゆ)を戴くことができると考えられてきました。この共食により神と人とが一体となることが、直会の根本的意義であるということができます。

折口信夫先生は「古代人の思考の基礎」の中で直会について下記の通り記載されています。

式の祭りの後に、神社で直会といふものをする。其が、今は殆、宴会とくつついてゐるが、昔は神まつり(正式儀式)・直会・肆宴(トヨノアカリ)と三通りの式が、三段に分れてゐた。この三通りの式を、次第にくだいて行ひ、直会では歌、肆宴では舞ひや身ぶりが、主になつてゐる。

直会は簡略化されたものとして、御酒を戴くことが一般的な儀礼となっています。本来は神事が終わり「神人共食」という祭りの延長が直会の意義です。

神職は祭りに奉仕するにあたり、心身の清浄につとめるなどの斎戒をします。祭りの準備から祭典を経て、祭典後の直会をもって全ての行事が終了し、斎戒を解く「解斎」(げさい)となり、もとの生活に戻ります。

50歳代の頃は鶴見神社の宮司と兼務社2社の宮司も兼ねていました。秋の大祭が終了しますと直会が三回も続きました。やっと大祭の緊張がなくなり、直会の宴席と言うことになるのです。しかし総代さんと崇敬者や来賓の人たちと一杯飲むのですが、最近ではお酒の他にビールが出たり、兼務社の近くのブドウから醸造した河内ワインが出たりして、結構酔いつぶれるのです。これが当社と兼務社の二社で直会が行われるのですから体が持ちません。

ところで東洋医学のバイブル『黄帝内経素問』の中に「喜」つまり喜びすぎると「心の臓」が不調きたすとあります。「喜び」という感情なんて、あればあるほど良いことだと思うでしょう。しかし『黄帝内経素問』では、体に良いようにに思える「喜」という感情も、過多になったり、過少になったりすれば体に不調を起こす、と教えているのです。

「喜は気を緩める」と記載しています。「喜」は精神的ストレス、肉体的疲労から緊張を緩和してくれる、といっています。確かに大祭などの重要な神事は強い緊張を強いられます。神事終了後の直会という「喜」は必要です。

しかしこれも直会の席上、飲みすぎて食べ過ぎて「気が緩む」と問題となります。東洋医学では、「喜は心をやぶる」と言って、直会・宴会・飲み会が続いたりしますと五臓の中の「心の臓」に悪影響を及ぼすと考えています。

私か思いますのにバランスです。「緊張」が続くと病気になり「遊興」が続くとこれも病気になります。「緊張」と「緩和」のバランスが大切です。今年で67歳になり老人の仲間ですので当社だけが直会があり兼務社は直会がありませんので助かります。
 

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「怒り」と「心の病」について

「怒り」と「心の病」について
東洋医学では「心の病」には、約2500年前の医学書「黄帝内経」(こうていだいけい)には七つの原因が感情が原因となっていると説明しています。それを「七情(しちじょう)」と言います。その内訳は

「怒る」・「喜ぶ」・「思い悩む「・「悲しむ」・「憂うる」・「恐れる」・「驚く」の7つです。

最近、適応障害・パニック障害・うつ病・自律神経失調症など「心の病」が社会問題にもなっています。「心の病」の原因はストレスであると言われています。東洋医学では何がストレスの要因かを「七情」で考えています。

それも「七情」のマイナスかプラスかを考えて、バランスがよければ正常な身体であり病気になることはないということです。

例えば「怒り」についてですが、私など神社の宮司なのでおとなしく怒ることはない人物だと思われています。「怒る」という感情は毎日持っています。テレビの放送で阪神タイガーズが負けていますと、「何をやっているや、しっかりと打たんか」という怒りの声で愛犬のルークはおびえます。

このように、おもしろくななことがあった時にこの「怒」という感情を持ったり、声を荒げたりする自体はまったく普通のことです。病気ではなく普通のことで健康的なことです。

しかし、何かのきっかけで、「怒りすぎたり」「怒りを我慢しすぎたり」すると「病気」になる、と東洋医学は考えます。東洋医学は「七情」のバランスを重要視しているのです。

報道以来、すっかり行方をくらましている豊田真由子衆院議員の「このハゲぇーーっ!」という怒声には度肝を抜かれましたが、これは怒りすぎです。彼女の事務所の政策秘書がスタッフに怒りの我慢をこえて入れ替わり辞めて行き、秘書仲間の間では「ブラック事務所」として有名だったそうです。

豊田真由子衆院議員の場合、パーソナリティ障害を患っておられると思います。それもサディスティックパーソナリティ障害だと思います。常軌を逸した「怒りすぎ」は心の病気です。豊田真由子衆院議員は自民党を離党されたそうですが、できれば国会議員も辞職され心を癒されて療養を続けられたほうがよいと思います。

ディスティックパーソナリティ障害をウィキペディアから引用します。

サディズムは、苦痛や不快をこうむる他者を見ることで快楽を得ることを意味する。相反過程理論では、誇示するだけでなくサディスティックな振る舞いの実行を楽しむことの様態も説明している。

サディスティックパーソナリティ障害を持つ人々は再発性の残酷行為と攻撃を示す。サディズムは、感情的残酷さの行使、恐怖の活用を通しての他人に対する意図的な操作、暴力への没頭、をも意味しうる。

ある種のサディスティックな人々が痛みや苦しみを他者に与えることで快楽を得るのではあるのだが、サディズムというものは必ずしも肉体的な攻撃や暴力の行使を必要としない。よりしばしば、サディスティックな人々は攻撃的な社会的振る舞いを示し、他者に優越しているという感覚を成就させるために公衆の面前で彼らに恥をかかせるのを楽しむ。

以上ウィキペディアから引用しました。

私が思うのに北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長もサディスティックパーソナリティ障害ではないかと思います。人生において恐怖ゃ失望、不平不安を肌で感じるときに、突然暴力的な行動に走ります。また屈辱や恥辱、失望を与えられたときに牙を向き、突発的に自制するものがなくなると、「怒り」を抑えなくなり他人や他国に対して恐怖を与えるような攻撃的な行動をとります。

サディスティックパーソナリティ障害は人を犠牲にしてまで萎縮させ服従させることに満足感を求めます。さらに「怒り」を行動で示して恐怖や脅迫を呼び起こす意図的な暴力的な手段を用います。他人や他国を打ちのめすことによって周囲の人々より優越感に浸ることを求めます。

サディスティックパーソナリティ障害の治療法に薬物療法や精神療法やカウンセリングがありますが決定的な治療法はありません。針灸医学では「癒しの鍼」を行い、その上で肩こりや目の疲れや全身の疲れをバランスよく治療して行きます。

結論から言えばおもしろいことがあれば、その分おもしろくないこともあるります。これは当り前の話です。高杉晋作の辞世の句を記します。

『面白き事もなき世を面白く すみなすものは心なりけり』

病で死の床にあった高杉晋作が上の句を詠み、その看病に当たっていた野村望東尼(のむら もとに)が下の句を付けたとされてきたようです。

簡単にいえば、自分の心の持ち方次第で、この世は面白なくても面白くなるんじゃないの?


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「気」「陰陽説」「五行説」をうまく運用している日本

「気」「陰陽説」「五行説」をうまく運用している日本
私は今から46年前に皇學館大学文学部国史学科を卒業し、神職として奉職するかたわら関西鍼灸柔道専門学校で柔道整復師を、大阪鍼灸専門学校(現森ノ宮医療学園)で針灸師の勉強して、柔道整復師・鍼灸師の国家試験に合格し免許証を取得しました。

その後、25歳のときに中国に留学し中医学を学びました。再び28歳のときに上海中医学院(現上海中医薬大学)へ短期留学しました。2回の留学で「気」の思想や「陰陽説」・「五行説」の学んだおかげで「神道」が理解することができました。また日本人はすばらしい才能を持った民族だと再認識しました。

それというのも神社建築や神道の神事、伝統文化のいたるところまで、どれだけ陰陽説・五行説が生かされているかを知ることができました。本家の中国より日本の方が「気」の思想や「陰陽説」・「五行説」を上手く運用しています。

「五行説」の運用している例を挙げます。福岡県太宰府市に朱雀という町名があります。昔、京都市の千本通のことを朱雀大路と読んでいました。大相撲の土俵の上にある神明造りの屋根には青房は東方を守護する青龍、白房は西方を守護する白虎、赤房は南方を守護する朱雀、黒房は北方を守護する玄武を表しています。

神宮の正宮には色の座玉(すえだま)があります。また白川神道では地鎮祭の際に敷地の東西南北に東は青い石、西は白い石、南は赤い石、北は黒い石、中央は黄の石をそれぞれ鎮め物として埋める神事があります。これも「五行説」の運用です。

ところで今日は8月28日です。この「月」は「陰」、「日」は「陽」を表しています。1年を通して「月」の運行は「満月」が12回、「新月」が12回あります。それで1年を12ヶ月としたのです。「太陽」の運行を調べますと「10日」ごとに変化します。それを「旬」と言いました。1ヶ月を「上旬」「中旬」「下旬」と3つに分けていますね。今でも8月下旬と普通にいっていますね。

野球の「先攻後攻」の「先」が「陰」で「後」が「陽」です。このよう私たち日本人は知らないうちに「陰陽説」・「五行説」を使用しています。

「陰陽説」「五行説」って何ですか?この答えを知るには「気」って何ですか?ということから考えなければなりません。4000年前の中国の自然哲学では、この世の全てのものは「気」から出来ている、そして全ての自然現象は、「気の動きによる現象である」と考えたのです。

「気」とは神秘的な生命力を指しています。人間、動物、植物、鉱物、その他のあらゆる自然界におけるすべての万物はみんな気で出来ています。すべての活動も「気」の動きであると考えたのです。このように述べると新興宗教ですか、といわれるかもしれませんね。

それを「気」を細かく説明するために生まれた考え方が「陰陽説」や「五行説(木、火、土、金、水)」という考え方です。もっと簡単に説明すれば「気」を「陰気」と「陽気」さらに「五行の気」と分類したのです。

まず、「陰気」は「月」、「陽気」は「太陽」、人類は男と女の2種類がいます。女は「陰」、男は「陽」と分けました。「陰」は「夜」で静的な気の実在、「陽」は「昼」で動的な気の実在を意味します。

「陰」と「陽」のどちらかの優劣を問うのではなく「バランス」を重要視したのです。「陰陽」のバランスを保つことにより安定が生じると考えたのです。余談になりますが、男の中には男らしい人もおれば女らしい男もいます。女の中でも女らしい人もおれば男らしい女の人もします。

東洋相学では「陽」の中にも「陰陽」があり、「陰」の中にも「陰陽」とがある、と考えたのです。

東洋医学では、このように人間に流れる「陰陽」の「気」のバランスが乱れたものを「病気」と考えます。そして人体の中に「陰」と「陽」の「気」の通り道があり、それを「経絡」(けいらく)と呼んだのです。「経絡」上の一番バランスの調整できる箇所を「経穴」(ツボ)と呼んだのです。「経穴」のことを「風水学」では「龍穴」と呼びます。

「気」という哲学がないと、「東洋医学」は成り立たないのです。

上代の我々の先祖は「気」を「タマ」と言っていました。「言霊」(ことだま)・「木魂」(こだま)・「船魂」(ふなだま)・「天玉」(あたま・後の頭)の「タマ」です。「タマ」を今風に言えば「神気」です。

それよりも普段から「気」の字を使う民族は日本人が一番多いと思います。「気」の字がないと使えない言葉が多くあります。

元気、生気、強気、弱気、浮気、負けん気、勇気、勝ち気、やる気、気力、根気、活気、殺気、狂気、意気、陰気、陽気、眠気、呑気、覇気、雰囲気、平気、本気、和気、蒸気、電気、豪気、短気、損気、毒気

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「神気」

「神気」
東洋医学において、「望診」(ぼうしん)という診断方法は非常に重要なボジションを占めています。自分の視力を通して体全体・顔面の色艶・舌の色・経絡などを診て診察する方法です。現代医学の言う「視診」とは全く違います。根本的に違うところは「望診」で「神気」を診ることが第一義にしているところです。

「神気」とは一体何か、といえば生き生きとした「生命力」ということです。人種によって「白人」「黒人」「黄色人」等の区別することができますが、人種の色とは関係なく「生命力」を感じることが鍼灸師にとって大事なことなのです。

神社の宮司として鍼灸師を続けている一つに「神気」を診ることは神道に通ずることがあるからです。神職として神さまの「神気」を感ずることができなければ失格です。発現されている「神気」を生き生きと、すっきりと、はっきりと分からなければ神さまと感応できません。また「神気」には色があるのです。神さまに神饌(しんせん・お供えのこと)を供するときに「神気」に色を感ずるときがあるのです。神饌を供して祝詞奏上するときに、「神気」に精彩のある赤色・青色・白色など、またはっきりしない色を感ずることが、時々あります。

このことを鍼灸医学では「気色(きしょく)」といいます。患者の人体から発する「発色」の鮮やかさ、生命体に現れる色を診て、生き生きとしているのか、悪い状態になっているのか診断と治療に役立てているのです。「気色」を見て「神気」のないものを「失神」、あるものを「得神」といったりします。悪性腫瘍などで亡くなる寸前、一時的に「神気」が生き生きとするときがあるのですが、「残灯復明(ざんとうふくめい)」といって最期の灯火です。これを「仮神」といっています。

時々、中国人から「風水」を依頼されますが、そのときにも土地の「神気」を見ます。場合によって土を舐めて「神気」を判断するときもあります。もちろん「気色」も判断します。東洋医学も風水学も神道神学も「神気」を感ずる学問です。

当社はいつも境内・ご神木・神殿には、神気=玉=魂=生命力を感応できるように、「すがすがしさ」を感応できるように工夫し努力しています。それができなれば祝詞を奏上しても鎮魂をしても感応することはできません。そして常日頃から自分自身、気が枯れないよう(けがれる→汚れる)に気を使っています。



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