So-net無料ブログ作成
前の10件 | -

「西郷どん」を観ると涙が流れる

「西郷どん」を観ると涙が流れる
三月中旬より体調不良が続きブログを更新できませんでした。お宮の仕事は禰宜の長男に任せて1ヶ月近く養生させてもらいました。養生しながら好きなジャズを聴いて、好きな本を読んだりしました。久しぶりに自著の「幕末入門書」志士たちの死生観を読みました。

明治維新の志士たちの死生観を追及した本です。特に吉田松陰先生と高杉晋作の師弟愛を強調し、「国事に奔走して死んだら魂は何処へゆくのか」を当時の志士になったつもりで書きました。また映画化ができるようにと脚本なみに書きました。

ところで来年、明治維新から150年も経ちます。そのようなつもりでNHKの大河ドラマ「西郷どん」を観ますと、不思議に涙が流れます。それと言うのも、鈴木亮平が扮する西郷隆盛が昭和45年11月25日、三島由紀夫先生と自決された森田必勝先輩とよく似ているからです。

今年も48年祭を森田先輩の故郷三重県四日市市で執り行う予定ですが、鈴木良平の西郷さんのしゃべり口調や、人を愛し、故郷を愛し、国を愛する精神が若き日の先輩にそっくりです。

渡辺謙の役が島津斉彬です。演出とはいえ西郷吉之助と斉昭公と激論を交わしている場面は、森田先輩と先生が議論している雰囲気です。演出されたドラマと分かっていますが、半世紀前を思い出して涙が流れます。事件後48年も経ちますが、決して忘れることはありませんでした。振り返れば自分自身を問い詰める人生でもありました。

しかも私と森田先輩との間に、果し得ていない約束が有ります。それは「日本人であることを誇りに思う国」「自分の国は自分で守る」という、「この国のかたち」を取り戻すことです。体調不良で養生するようでは約束を果たすことはできません。今一度、元気になるためにもう少し養生をします。



nice!(1)  コメント(0) 

神職の忌中

神職の忌中
去年の12月の中旬のことですが、当社に氏子崇敬者のお方が来られました。お話しの内容は父が亡くなって50日すぎたので、明日の日曜日に「七五三」のお参りさせて頂けないか、と言うことでした。

親族が亡くなったとき、身内の者は喪に服します。これについて定めたものが服忌(服喪)制度です。この期間中を「忌中」と言い、神社への参拝、祭りごとへの参加、お祝い事等を遠慮するのが一般的です。

その期間は、ご自身と、亡くなった方との血縁がどうであったかによって、変わります。

神社本庁の「神葬祭の栞」より抜粋します。

父母 50日(1) 嫡子 20日(1)
祖父母 30日(2) 末子 10日(1)
曾祖父母 30日(3) 伯叔父母 20日(3)
夫 30日(1) 兄弟姉妹 20日(2)
妻 20日(1) いとこ  3日(4)
義父母 30日(1) 甥姪  4日(3)
( )内の数字が親等です。

当社の氏子地域では親族の場合、すべて50日の忌中が習慣となっています。50日すぎれば鳥居をくぐり参拝も差し支えない、と言うことです。ただし伊勢神宮は1年間参拝できません。

それでは神職の場合はどうなのか、神社本庁では神職の服忌心得として、忌の期間を父母・夫・妻・子は10日間、7歳未満の子・祖父母・孫・兄弟姉妹については5日間賭しており、服の期間はその人の心得に任せ、一社の慣例がある場合にはこれに従うとしています。また忌の期間は喪事のみに関わり、この期間が終了したときにお祓いを行うとあります。

神職の父母・夫・妻・子は10日間、所定の忌に服します。ただし血縁関係のない神職が
何十人も職員としてご奉仕している神社は別にしまして、宮司一人だけの小さな神社の場合、所定の期間忌に服すると神社の機能を果たすことが出来ません。この場合、神社庁に「除服出仕願」を提出し、忌の日数を適宜縮減することもできます。

先代は日頃から、忌中に神事と重ならないためにも「宮司になったら、大祭・中祭・小祭を除いた日に亡くなるように」と言っておりました。

ところが名誉宮司なった先代が平成15年4月28日に亡くなり、5月5日には摂津三田藩三代目藩主九鬼隆律公を御祭神として祀る稲荷祭を斎行しなければなりません。私は10日間の忌中にあたるために、当社の若い神職が斎主として執り行ってくれました。

私の友人は民社の宮司で、神職は彼一人だけでした。大祭の前に父親が亡くなり、「除服出仕願」を提出し、そのために自祓(じばらい)を行い忌中を短縮しました。自祓とは自分で自分を祓う方法です。友人から頼まれたので白川神道の自祓御幣の作り方と自祓の祓いの祝詞と作法を教えました。



nice!(0)  コメント(0) 

日本国憲法無効論

日本国憲法無効論

私のブログを読まれている皆さん、下記の国旗はどこの国の国旗でしょうか。

旗連合国統治領日本の.jpg
             

 昭和20年8月15日から昭和27年4月28日、サンフランシスコ条約発効の日までの6年8ヶ月間の「連合国統治領日本」の国旗です。6年8ヶ月間は「「日本」という国名は存在していません。

日章旗の掲揚は、6年8ヶ月間は禁止されておりました。特に日本の商船は、海上において、上の三色旗を掲げることを強制されていたのです。

ところで父母も祖父母も先祖代々「日本国」生まれです。私の兄弟といとこ達は「日本国」生まれではありません。「連合国統治領日本」に生まれました。昭和49年8月、沖縄県に旅行したときに、那覇市の米軍払い下げの店の古着に「Made in Occupied Japan」(占領下日本製)と表示されていたものがありました。

わが国は敗戦から2年後、昭和22年から貿易が再開された輸出品に「Made in Occupied Japan」と表示することが義務付けられました。「Made in Occupied Japan」の表示義務は昭和27年4月28日まで続きました。それ以降は「Made in Japan」が表示され輸出されるようになりました。

昭和21年11月3日公布され翌年の昭和22年5月3日に施行したのが、「日本国憲法」ですが、連合国側からいえば「Constitution of Occupied Japan」、つまり「占領された日本国憲法 典」または「連合国統治領日本・憲法 典」となります。

ハーグ陸戦条約にも違反しています。占領軍は他国の憲法に介入することはできません。しかも日本国憲法は占領軍が「英語」で作りました。

当然のことですが「日本国憲法」の改正には国民投票をすることが定められています。昭和21年11月3日までの間、敗戦で疲弊した我が国の国民は国民投票をやっていません。

まだ一度も国民の過半数以上の信を得て許可を得ていません。

連合国によって厳しい報道規制が引かれ、その言論の自由も制限された中で、しかも敗戦国ということで軍事力を背景に、当時の国会は簡単な手続きで可決しのが現憲法です。

現憲法は連合国の武力の圧力で国民的な議論をできずにわずか8日間で米国が作ったものでした。

2016年8月15日、米国のバイデン副大統領は「我々が(日本を)核武装させないための日本国憲法を書いた」と発言しています。毎日新聞は米国の政府高官が、「日本国憲法」を「アメリカが起草した」と明言するのは極めて異例だ、と報じました。

私は「日本国憲法を改正しろ」といっていないのです。「日本国憲法は無効だ」といっているのです。「Constitution of Occupied Japan」または「Made in Occupied Japan」を無効にして「Made in Japan」の憲法を制定してほしいのです。

国民が議論し国会において衆参で過半数で「日本国憲法の無効案決議」をすればよいのです。別に「大日本帝国憲法」を復活させようとは思っていません。米国のポチになっている我が国ではなく永世中立のスイスのような日本国に改革したいのです。

  

nice!(0)  コメント(2) 

竹島の日です。

竹島の日です。

今日2月22日は「竹島の日」です。 2月22日(木)13:30〜15:50まで、島根県では県では竹島問題の早期解決に向け、国民世論の啓発を図るため「竹島の日」記念式典を開催していました。

竹島は日本固有の領土であるにも関わらず、韓国側が不法占拠し強行的な姿勢を取り続けています。不法占拠から今日で66年目になります。

島根県隠岐郡隠岐の島町の竹島は、明治38年(1905)1月28日に島根県への編入された離島で2つの島と周辺の岩礁からなります。同年2月22日に島根県知事が所属所管を明らかにする告示を行っています。

ところが昭和27年(1952)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効前(日本の主権回復前)の同年1月,李承晩(イ・スンマン)韓国大統領は「海洋主権宣言」を行って,いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定しました。「李承晩ライン」の内側の広大な水域への漁業管轄権を一方的に主張し,そのライン内に竹島を取り込んだのです。

昭和40年(1965)6月22日に日本と大韓民国との間で結ばれた通称日韓基本条約までに
韓国軍は、「李承晩ライン」越境を理由に日本漁船328隻を拿捕(だほ)し、約4000人の日本人を不法に抑留し、8人の方が亡くなるという悲惨な歴史も忘れないでください。

日本国政府は竹島の領有権問題を「国際司法裁判所」(ICJ)に付託するよう韓国政府に提案していますが、韓国側は拒否を続けています。

ラスク書簡(1951年8月10日、当時の米国国務次官補ディーン・ラスクから通達された書簡)にも「竹島は日本国領土」と記載されています。ウィキペディアから引用します。


(略)・・・ As regards the island of Dokdo, otherwise known as Takeshima or Liancourt Rocks, this normally uninhabited rock formation was according to our information never treated as part of Korea and, since about 1905, has been under the jurisdiction of the Oki Islands Branch Office of Shimane Prefecture of Japan. The island does not appear ever before to have been claimed by Korea. ・・・ (略)

(独島、もしくは竹島またはリアンクール岩に関して、この普段無人の島嶼は、我々の情報によれば、韓国の一部として扱われたことは一度もなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島庁の管轄下にあります。この島は、韓国によって権利の主張がなされていることが、これまで明らかになっていません。)

今回の平昌五輪で使用された南北統一旗に描かれた地図には竹島は記載されていなません。その理由はあくまで冬季オリンピックなので政治的な問題を排除すべく国際オリンピック委員会が記載を禁止したためです。

ところが北朝鮮からやってきた美女応援団は此れを無視して、竹島を記載した統一旗を振りました。

竹島、尖閣諸島、北方領土、国民が国を守る気迫がないと外国の領土になってしまいます。

nice!(0)  コメント(0) 

伝統・文化の情報発信

伝統・文化の情報発信

平成30年の正月の歳旦祭から2月3日の節分祭までの1ヶ月間、神事や行事で忙殺され
やっと一息つけるようになりました。

この1ヶ月間、全体的に見れば当社の参拝者は例年よりも多かったと思います。毎年のことですが、年末になりますと、いつもながらテレビをはじめマスコミが有名神社を取り上げる機会が多くなります。

神職や巫女さんの迎春の準備などテレビでも報道されます。それは全国的に知られた神社のことだと思います。当社は千年の由緒がありますが、村社つまり村の鎮守の森にある氏神様です。大阪市鶴見区の地域密着の神社です。

氏子さんたちとの接触と繋がりで当社は運営されています。参拝者の多くは親近感を持って初詣に訪れたり、節分祭の厄除け人形祈祷や厄年のお祓いの祈祷を受けに来られます。
また夏祭・秋祭には積極的に行事に参加されます。

神社の参拝作法、お寺の参詣作法などは、各家庭や地域のなかで自然と伝えられてきました。しかし現在では、核家族化や世帯数が増え、人口増加に伴い、新しい地域共同体に変化しょうとしています。

 当社に求められていることは、地域に伝わる伝承や神事をどのように情報発信をするのか、と言うことだと思います。全国の神社には、氏子崇敬者とともに伝統的に伝えられてきた神事があります。それが過疎化が進む地域・地方や都市化に伴い核家族化が進む都会で、伝えられた伝統や文化が消失の危機にあると思います。

神社は地域の伝統・文化・風習を守り伝える役割があり、そして情報発信を行くことが大切だと思います。神社側が、それを意識的に発信すべき時代が来ていると思います。




nice!(0)  コメント(0) 

「明けましておめでとう」について

「明けましておめでとう」について

お正月の挨拶は「明けましておめでとう」です。でも、どうして「おめでとう」なのか、何がおめでたいのか、についてお話しいたいます。
古い言葉に「盆と正月が一緒に来たようだ」という言回しがあります。この言葉の「盆」と「正月」とは、日本古来の神道の「神祭り」の行事なのです。

古代より神道の「神祭り」とは、私たちに恩恵をもたらしてくれる「神霊」をお迎えして、神人和合の時をすごすものです。簡単に言いますと神さまと同居することなのです。

「古事記」にも登場する少彦名命(すくなひこのみこと)も常世(とこよ)からくる常世(とこよ)神(かみ)です。折口信夫先生の言葉で言えば「マレビト」であり、「外来神」です。神というより「精霊」といったほうがいいのだと折口信夫先生は言っておられます。「神」の観念が発生する前は、精霊や魂(たま)でした。

ところが時代の流れと共に、お盆にお迎えするのは、「御先祖さま」、お正月にお迎えするのが「歳神さま」と区別されるようになりました。しかしどちらも原点は「生命の根源」である常世からやってくるとされていました。

お正月に、注連飾りをして門松を立てるのは、単なる慣習ではありません。「歳神さま」をお迎えするために、家の中を掃除するのは祓い清めの名残です。神さまの御座としての準備の意味があるのです。宮司の私もお正月まえに散髪をしてイケメンにするのも「ご先祖さま」と「歳神さま」をお迎えするためです。その後、正月午前零時に神殿に於いて元日祭を執行します。

「歳神さま」は、私たちにその年の生命、寿命、健康を授けて下さいます。これ歳神さま」からの賜り物トシ神さま」からの「タマわりもの」としての「トシタマ」すなわち「お年玉」なのです。

本来の「お年玉」はお小遣いではなく神さまからの「賜りもの」なのです。だから、楊枝子供でなくても、何歳になってもいただくことができるのです。この生命、寿命を「歳神さま」から賜ることがあってこそ「おめでたい」のです。当社の言い伝えでは1月15日まで「歳神さま」は同居され、夜の「どんど焼き」で帰られるということでした。

今は防災上の問題があり、当社では「どんど焼き」は中止しています。その代りに当社から授かった塩を、その年の恵方の方角に撒いて「歳神さま」をお帰りしていただいています。


nice!(1)  コメント(0) 

恒例の一般参賀

恒例の一般参賀

天皇陛下には旧臘(きゅうろう、臘は陰暦12月の意味です。去年の12月をいいます。新年になってから用いる言葉です)23日、満84歳の御誕生日をお迎へになられました。宮中三殿では天長祭が執り行われました。

さらに宮内庁の発表によりますと、平成30年1月2日に皇居で行われた恒例の一般参賀に陛下は5回お出ましになられ、お祝ひ申し上げる人々にお応えになられました。参賀者が計5回で12万6720人(速報値)となり、平成に入り過去最多を更新しました。

これまでは、皇太子妃雅子さまがご成婚後初めて参列された平成6年、11万1700人(計8回)の参賀者が最多でした。

午前10時10分からの1回目の一般参賀では、陛下がマイクを通じて

新年おめでとう。皆さんとともに新年を祝うことを誠に喜ばしく思います。本年が少しでも多くの人にとり、穏やかで心豊かな年となるよう願っております。年のはじめにあたり、わが国と世界の人々の幸せを祈ります。

と新年の寿詞を述べられました。

陛下の譲位日が平成31年4月30日と決定されてから初めての新年一般参賀でした。また秋篠宮文仁親王の御長女、眞子内親王が今年11月にご結婚なさるため、今回が最後のお出ましとなりました。

nice!(1)  コメント(1) 

神職の世襲について

神職の世襲について
年の瀬も押し迫るなか、都内神社における凄惨な事件が神社関係者をはじめ広く世間を驚かせました。「稲蓬莱」を氏子地域の会社や氏子さんたちの家々を回っていますと、富岡八幡宮のことについて質問を多々受けました。

当社は神職が私を含めて3名、富岡神社は12名の神職が奉職されています。富岡家と同様に当社も花谷家が代々宮司職を継承する社家です。先代からも「神社は神さまから預かったもの」であり、神職個人のものとは違うということを徹底的に躾けられました。

宮司とはそのお宮を代表する神職で、祭祀や社務などを主管する立場にあります。当社では禰宜が長男で、私の妻が権禰宜の職にあります。禰宜とは「祈ぎ(願い)」の語義で、神に祈請する者の意味があります。具体的には、宮司を補助して祭祀や社務をおこなう立場にあります。この禰宜を補佐する役目として権禰宜の職があります。

平成29年度、神社本庁に加盟している全国の神社は約8万社ほどあります。全国の神社の約98%が神社本庁包括下の神社です。そして神職は全国に約2万2千人おられます。しかし職員が宮司一人しかいない小規模な神社が多数あり、特に過疎地域においては、一人の神職が数十社もの神社の宮司を兼務している場合が多く見られます。私の友人は30社の宮司職を兼務していています。

ところで宮司の兼職率は全体で45%だと思います。経済的な理由から神職の兼業率が多いのです。教員や公務員、農協の職員など様々です。その兼業している宮司の子弟の兼業率は70%以上になると思います。神社の年間収入が300万円未満のところは6割強に上ります。

実は私も兼職しています。学校法人森ノ宮医療学園の理事をしています。学校法人森ノ宮医療学園は鍼灸師と柔道整復師を養成する専門学校と針灸学科・看護学科・理学療法学科・作業療法学科・臨床検査学科を要する森ノ宮医療大学があります。

さらに私は神社の社務所で針灸整骨院を開業しています。禰宜の息子は音楽家です。神社界では変わり者で通っていますが、息子も私も皇學館大学を卒業しています。

鶴見神社の社格は村社で大規模な神社ではなく、小さな神社で、しかも父ちゃん・母ちゃん・兄ちゃんの三ちゃん神社です。宮司と言えども氏子の各家庭を回り「稲蓬莱」のご寄進を頂くこともあります。

宮司は神社の神さまに祭祀・神事を司る「聖なる部分」と宗教法人の代表役員として神社の維持・管理のため対外的には法人を代表する活動を行ない、対内的には氏子・崇敬者、役員、総代といった様々な立場の人々を統括し調整する役目、「俗なる部分」があります。

世襲の神職が注意しなければならないのは、「神社は神さまから預かったものであるという自覚と祭祀・神事に勤しむ」ことです。それと「神社の物と個人の物との区別」を明確にすることです。そして「氏子があっての神職」という意識です。

宗教法人格を有している神社は一般企業と比較し、固定資産税などの税金面で優遇されています。それはあくまでも地域の文化や伝統を後世に残すという役目と地域のコミュニティやお祭などで地域の絆を深める場所、という役目があるからです。また地域の活性化や街づくりに神社は大きな役目を果たしているからです。そのことから神社は「個人のものではなく神さまのもの」という意識が神職には大切です。

nice!(0)  コメント(1) 

「天津永世の伝」

「天津永世の伝」
白川神道の行法の一つに「天津永世の伝」と呼ばれるものがあります。「息吹永世の伝」とも呼ばれています。これは無声の祓です。重要な神事の前に行います。神殿で先ず正座して目は半眼にして前方1mぐらいを見て、静かに鼻から息を吸い込み口から細く吹き出します。臍下丹田の呼吸法です。

一見簡単に見えますが、なかなかリズムを取るのに難しいです。白川家の門人であった井上正鐵(まさかね)は、その著「神道唯一問答書」の中で「御祓は務めやすく、永世の伝はつとめがたく候」と述べている通り彼も苦労したのでしょう。

実際に「天津永世の伝」を行う前と終わった時の血圧測定しますと血圧は下がります。「天津永世の伝」を行うと「心の禊」ができ、すかすがしい境地になり、「神気」を自覚することが出来ると伝えられています。

平成29年11月23日午前7時に「新嘗祭」を斎行しましたが、その1週間前から斎戒します。毎夜7時前後、夕拝時に「天津永世の伝」を行いました。「天津永世の伝」は無声の祓いですが、「新嘗祭」を控えているので和久産巣日神(わくむすひのかみ)」を何回も心で唱えながら呼吸法を行いました。和久産巣日神は農耕で豊穣をもたらす生産の神さまです。

新嘗祭が終了しますと、今度は三島由紀夫大人命、森田必勝大人命の野分祭を三重県四日市市で執り行わなければなりません。11月24日の夕拝から「天津永世の伝」を行いました。自決された森田さんの墓前で野分祭を斎行するのですから、呼吸法をしながら「なぞてすめろぎは人間となりたまひし」を心の中で唱えました。

そして11月25日正午、森田必勝大人命の墓前で47回目の野分祭を斎主として斎行しました。たかが墓地は一片の石ではないかと言われるかもしれません。その一片の石から歴史を変えさせるのが私の斎主としての役目です。

神戸市の湊川神社の境内にある楠木正成の墓碑があります。その墓碑が明治維新を成し遂げたのです。明治維新の成し遂げた若き志士たちの多くが楠公を敬慕したのです。楠公の「七生まで同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさん」という最期の言葉から「死生観」を学びとったのです。

吉田松陰先生、西郷隆盛、真木和泉守、楠公の墓に参り自分たちの志を励まし勇気づけたのでした。楠公の墓碑には「神州正気の精」が鎮められているのです。

森田さんと三島先生が言いたかったことは「天皇国日本を護る」ことだと思います。そのことから「護国の鬼」として、生きても亡くなっても働けるようにと魂魄をこの世に留めてくださいと祝詞で奏上させてもらいました。
 

先生と森田必勝さんには死して死なない「神州正気の精」があります。先生の檄文を見れば分かります。
 
今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。
それは自由でも民主主義でもない。日本だ。
われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。

この最期の言葉を「死ぬことによって生きかえる」ように神事で行いました。これが白川神道の真髄です。先生も森田さんも我が国の危機においてこれからも蘇ってきます。すでに蘇っておられます。森田さんの慰霊碑は一片の石からできていますが、そこには「神州正気の精」「七生報国」の「霊魂」が宿り、志を継ぐものに勇気と活力を与える場所となります。そして日本を歴史と伝統の国として復活させてくれます。

これから若き志士たちが目覚める時代です。




nice!(0)  コメント(0) 

47年の野分祭

47年の野分祭
昨日の平成29年11月25日土曜日正午から三重県四日市市大治田にある霊園で森田必勝さんの47年目の野分祭を斎主として斎行しました。今回は主催の三島・森田事務所から大阪市の鶴見神社宮司を斎主として自決された森田必勝大人命の墓前で野分祭を、同時刻に横浜市鶴見区鶴見の鶴見神社では金子宮司を斎主として三島由紀夫先生の慰霊祭、野分祭を同時に斎行する、と言うことに決まりました。

思えば昭和45年11月25日当時、私は20歳、森田さん25歳、三島先生は45歳でした。
東京は市ヶ谷の自衛隊駐屯地で先生と森田さんが自決されたのは47年も経ちますが、先生の檄文の言葉や森田さんの志は決して忘れることはありません。

当時、私も楯の会に入会するために三重県久居市の陸上自衛隊第10師団第33連隊に入隊し訓練を受けていました。楯の会事件が起きていなかったら森田さんの勧めで楯の会に入っていました。

男の私が言うのもおかしいけれども、森田さんは笑顔がとてもかわいい人でした。よくサントリーレッドをコーラーで割って飲み憲法改正して自衛隊の国軍、自主憲法・自主防衛の話しを聞かされました。森田さんは、ハイライトを吸われていましたが、先生と違いタバコの本数は決められていました。先生は缶ピースを好まれ大変なヘビースモーカーでした。生きておられたら先生は肺がんになられていたのではないかと思います。

森田さんは少々肥満気味で、あるときなど「タバコをやめたら太るし新聞配達のアルバイトもしたけれどやせない。花谷、どうすればお前みたいにやせられるのか」。当時、私は森田さんの悩みは肥満だと思っていました。まさか昭和45年9月ごろ、「墓参りに四日市に来ている」という電話が最期になるとは思いませんでした。

あの時に伊勢市から四日市まで出かけて森田先輩と会っていたら、と随分悩みました。

私は森田さんのことを先輩とお呼びしていました。そのことから森田さんと一番親しいくされていた伊藤好雄さんのことを今でも先輩と言っています。亡くなられた元楯の会の阿倍勉さんや持丸博さんも先輩と呼んでいました。

今年の8月、元楯の会の勝又先輩と伊藤先輩が当社に来られ、横浜の鶴見神社では主に三島由紀夫大人命の野分祭、四日市市大治田の慰霊碑では森田必勝大人命の野分祭を大阪の鶴見神社の宮司が斎行してほしい、と言うことでした。横浜の鶴見神社も大阪市の鶴見神社も兄弟関係同様なので承諾しました。「身罷った森田と宮司は親しかった」ということも言われましたので11月25日の土曜日は鍼灸の治療は休診としました。患者さんには申し訳ありません。また七五三の参拝が多いのなか、私を含めて2名の神職がいなくなるのですから、禰宜の息子には申し訳ないと思っています。

47年祭、野分祭を斎行するために、昨日は午前10時20分に森田家の墓前と森田さんの慰霊碑の前に到着し、神事の準備をしました。私を含めて神職2名の神事です。野分祭を執り行うために装束の着装の場所が必要となります。そのため森田さんのお兄さんの家で装束の着装をさせていただきました。そのときに仏壇にもお参りさせてもらいました。

私は「斎服」(さいふく)に冠(かんむり)、当社の神職は「浄衣」(じょうえ)に烏帽子(えぼし)を被り、野分祭を斎行しました。ただ森田家から慰霊碑まで自動車に乗せてもらいました。

森田さんの慰霊碑の前には元楯の会会員、伊藤先輩を含んで18名と警視庁の公安警察1名が参列されていました。野分祭は時間通り正午に斎行しました。

私が鶴見神社宮司として自決された先生や森田先輩の慰霊祭を斎主として斎行するとは考えもしなかったことです。野分祭終了後、森田家のご好意で自宅の仏壇の前で直会(なおらい・共飲共食儀礼)となりました。

直会終了後、元楯の会の三宅孝生先輩の津市にある店で懇親会を開催しました。午後5時から午後7時まで飲みました。先輩たち、50年目の野分祭まで長生きをして下さいね。


nice!(1)  コメント(0) 
前の10件 | -