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「緑の連隊長」について

「緑の連隊長」について
 皇學館大学の学生のときに恩師荒川久寿男先生のご紹介で高千穂商科大学の教授の名越二荒之助(なごしふたらのすけ)の勉強会に参加したことがありました。ちょうど靖国神社で神職の神務実習を受けていましたので、名越先生から靖国神社では有名な「緑の連隊長」吉松喜三陸軍大佐のお話しを聞かせていただきました。

名越二荒之助先生の「日韓2000年の真実」から抜粋します。

吉松喜三大佐は、支那事変当時、戦車連隊長として中国大陸で活躍した人でした。英霊は緑の樹に宿ると信じて、作戦が終わると「弔日支両軍戦歿勇士之霊 興亜祈念樹」という慰霊標をたて、その周囲に樹を植えました。

そんなことを繰り返しているうちにやがて吉松大佐は、中国人からも「緑の連隊長」と呼ばれるようになりました。昭和十五年から復員する二十一年まで、吉松連隊長が大陸各地で植えた樹は実に四百万本に達し、敵の蒋介石総統も感謝したほどです。 吉松さんは戦後も靖国神社の銀杏を苗木にして頒布することを始めました。「靖国」とは青を立てて国を安んずることだというのが、吉松さんの信念でした。

戦後、育てた苗木は百六十万本に達し、国内はもとより世界各国に植えられました。ドイツ海軍が靖国神社に参拝した時、吉松さんが育てた靖国の銀杏の苗木三本を貰い受け、キール軍港。慰霊塔(高さ八十五メートル)の横に植えました。靖國の銀杏は大きく育ち、現在、銀杏の側にはその「いわれ」を日独両語で刻んだ銅版をはめこんだ碑が建っています。

ドイツはこのお返しとして樫の樹三本を日本に贈ってきました。靖国神社境内に建つ靖国会館入口左にそびえているのがそれです。

現在日中関係は尖閣諸島の領有権問題や外交問題で混迷を深めています。今日の日中関係は、遺憾ながら、国交正常化以来、最悪の状況に陥っていると思います。その大きな原因は、日本が大東亜戦争で戦ったのは国民党であって中国共産党ではない、という認識のズレだと思います。「正式」に、日本に勝ったわけではない、という劣等感が中国共産党にあり、それが南京虐殺記念館などの反日記念館になり、反日教育の原点となっています。

中国は日本の軍隊に勝つどころか、戦ってもいないという劣等感を払拭させるために「反日教育」「反日感情」を高めているにすぎないのです。台湾は日清戦争以来、日本の統治下となり、終戦まで続きました。日本の敗戦後、中華民国の統治下に入り、1949年に中華民国政府が中国共産党に大陸を追い出され台湾に逃げていったのです。従って台湾は台湾で中国共産党の支配下でもなく台湾人の独立国家です。

今回の吉松喜三大佐のお話しは、国民党との戦争の最中の出来事です。吉松喜三大佐は日華事変直後の昭和15年に戦闘中に腹部を負傷し後方の野戦病院に送られました。療養中にあることにひらめかれたのです。

それは日本軍の進軍したあとには、草木も枯れる、何も残っていないなどと言われないように緑の木をみんなで植樹をしよう。植樹によって荒んだ兵隊達の心に安らぎを与えることができる。そして散華した敵味方の将兵の霊魂の鎮魂ができる。草木も生えない大陸の大地に樹木を植えて繁らせて、住民を喜ばせようではないか、ということでした。

その後、昭和18年に機動歩兵第三連隊長に就任した吉松大佐は、そのひらめきを、連隊のみんなに伝え実行に移されました。

各大隊ごとに50万本の植樹をするというものです。1大隊が約1,000人なので、1人あたり500本の植樹をするという壮大な計画です。第三連隊は現在の中華人民共和国内モンゴル自治区包頭市サラチ郊外の駅近くで、早々に50万本の植樹を達成します。

第一大隊はこれを記念して「興亜植樹の森記念の石碑」を建てました。第三連隊の戦闘は毎日起こっています。吉松大佐の部隊は戦闘を休むことがあっても、植樹を休んだことは一日もなかったそうです。

その後、吉松大佐の第三連隊は河南作戦に転属されますが、洛陽の攻略戦後も終わると同時に植樹を始めます。敗戦後、第三連隊は全員中国軍の捕虜となります。捕虜となり始めの頃は道路工事などをさせれていましたが、中国共産党から「植樹隊」の編成を命じてきます。吉松大佐達は、平和の記しとして黙々と植樹を続けました。その結果、吉松大佐に中国共産党から「感謝状」が届きます。

中国共産党から「感謝状」をもらったのは、おそらく第三連隊の吉松喜三大佐が最初です。さらに吉松大佐らが日本に帰国するとき、中国共産党は、先の「感謝状」の他に、建国の父「孫文の肖像画」と、吉松隊長以下、全員が無事に日本に帰国できるようにと、専用の通行手形まで出してくれたそうです。

おかげで吉松大佐の第三連隊は、途中でトラブルに遭うこともなく、全員無事に日本に帰国することができています。

私は一度も靖国神社で吉松大佐と出会ったことはありませんが、時々参拝に来られ境内の樹木の剪定もされていたそうです。

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荒れる成人式に思う

荒れる成人式に思う
今年も各地で物議をかもした成人式でした。今年の成人式の報道で見ますと、沖縄県那覇市では検問を突破し、国際通りに乗り入れようとした19歳と20歳の新成人ら8人が現行犯逮捕されています。茨城県水戸市で行われた成人式では、特攻服に身を包んだ新成人たちが拡声器を使い、式の進行を妨害しました。

このように近年では成人式会場で起こる事件や事故も多くなっています。私は行政主体の大規模な成人式ではなく、大学や専門学校或いは職場や町単位の地域規模で縮小したミニチュア成人式を行うことを提案します。

もう一つ、毎年沖縄県那覇市の荒れる成人式のニュースが報道されるたびに、さらなる荒ぶる成人式を発生させているのではないだろうかと思えてなりません。マスコミの報道の姿勢についても言及されるべきだと思います。マスコミも成人式のニュースの注目をあつめるため、成人式に荒れることを期待して取材をしていると思えます。

思い返せば私の成人式は昭和45年(1970)1月15日、皇學館大学で行われました。成人式を迎えた同級生はそれぞれの担当の教授の言葉が記された色紙を戴くことが恒例行事でした。

私は当時の伊勢神宮の祭主北白川房子様と荒川久寿男先生から直筆の色紙を戴きました。荒川先生の色紙には「立志以為萬事之源」(立志を以て万事の源と為す)と書れはかれていました。これは吉田松陰先生の「士規七則」の中にある言葉です。松陰先生が叔父の息子である玉木彦介の元服を祝い贈ったのが「士規七則」です。

「立志」とは目標を決めることです。人生、何をどのようにしたらよいか、具体的な目標を持つことが「立志」です。何をどのようにしたら人のために役立つことが出来るか、真剣に考え、日本や世界の状況を見渡して目標を立てることです。

先ずは、大きな目標を描くことです。簡単に達成できないほど大きな目標を持つことです。頑張れば何とか達成できそうな目標は、目標ではありません。それは、単なる目の前の計画にしか過ぎません。大きな目標を持って、その上で到達するよう頑張って努力することが重要なことだと思わいます。

大きな目標を達成することは困難でしょう。「千里の道も一歩から」というように目標に向かって一歩一歩、今出来ることから実践することです。その積み重ねが現実となるのです。

要するに成人式で暴走する若人は、目立ちたがり屋で成人できない人たちなのです。その証拠に羽織袴を着て出席するのは、特攻服を着て会場で暴れるという行為は、子供でいたいのに、二十歳になってしまったから、最後の悪あがきをするのです。彼らは自分が成人でないことに、無意識のうちに、劣等感を感じているのです。

成人式で暴走する若人たちに必要なものは「立志以為萬事之源」と言うことです。


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 当社にとって「本社」の言葉の重さ

 当社にとって「本社」の言葉の重さ
当社の氏子地域では「本社」という言葉が当たり前に使われています。「本社」とは日吉大社のことです。われわれ鶴見に住むものにとって日吉大社は特別な想いがあるのです。わが町鶴見の先祖は、平安時代中期から後期にかけて日吉大社の牛尾山から移住してきた歴史があるからです。その際に牛尾山に鎮座する八王子社の分霊を勧請したことにより鶴見神社及び鶴見の歴史が始まります。

当社の氏子地域である大阪市鶴見区鶴見は江戸時代まで「下辻村」(しものつじむら)といいました。由来は故郷の近江国下阪本村比叡辻から下と辻という字を頂いて名づけました。
永遠に故郷を忘れないためです。

このことから牛尾山から鶴見区の歴史が始まったといっても過言ではありません。以上のことは郷土史として地元の小学生にも教えています。さらに現在においても当社の氏子地域の盆踊りは河内音頭ではなく江州音頭が主流です。

 その上、鶴見言葉といわれる方言も本社のある大津市坂本の方言に近いのです。また本社との深い関係は郷土の歴史を見ましても分かると思います。元亀二年(1571年)九月十二日、 織田信長が比叡山延暦寺の焼き討ちを行い、故郷にある延暦寺や日吉大社の奥宮、八王子山も消失させたと聞くに及ぶとすぐさま石山本願寺の軍勢に加わり織田勢と戦った歴史があります。

そういう土地柄なので、今に至るまで当社の氏子総代や旧家の人たちは牛尾山から移住したことを誇りに思っています。当社は村社ですが、氏子にとっては日吉大社の直系、あるいは直参という想いが今も強く残っています。

ところで鶴見神社はもともと八王子神社が正式な社名でした。それが鶴見神社といわれるようになったのは、鎌倉時代の以後からのことです。建久元年(1190)、源頼朝が上洛の際、静岡県磐田市の鶴ケ池で多くの鶴を捕らえ、すべての鶴の首に鎌倉幕府の証である金の短冊をつけ、いっせいに天に向かって放つ「放生会」を行ったのです。

 頼朝にとっては平氏に討たれた父や兄弟たちの弔いです。父義朝の果たせなかった武士による全国制覇という偉業の成し遂げた報告もあったのでしょう。一斉に放された鶴は大空高く飛び、舞い降りたところが当社が鎮座する下辻村でした。

 首につけた金の短冊をつけた鶴たちの舞い降りた様は見事で、たちまち噂は近郷近在に広まり、多くの人々が鶴を人目見ようと詰め掛けたことから「鶴見」というあだ名ができたのです。摂津の国の言葉で「下辻村の八王子神社」とは呼びにくく、長きにわたり「鶴見の宮さん」と愛称を込めて呼ぶようになったために、昭和27年正式に鶴見神社と社名を変更し今日まで至っております。

平成28年1月31日に当社敬神婦人会主催の観光バスでの初参りが行われます。平成28年度が申年に当りますので、本社に参拝させてもらいます。敬神婦人会会員の皆さんは楽しみにしています。




         







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「門松」について

「門松」について
昨日は朝食に七草粥を食べました。「門松」は1月7日の夕刻に片付けました。当社では12月14日から1月7日までを「松の内」という期間です。「松の内」の期間に門松を設置し正月三が日が終わり1月7日に片付けるのです。

ところで新年を祝って家の門口などに飾られる「門松」とは、その年の神さまをお招きするための目印です。また、神さまがお降りになったときに宿られる依代(よりしろ)を表すものです。

もともとは、松・杉・椎・榊といった常緑樹を用いていたようですが、いつしか主として松を用いるようになり、そのことから門松と呼ばれるようになりました。「松」は「祀る」あるいは「待つ」から由来があると思います。当社では12月29日は門松の設置はしません。なぜならば「29」は「二十の苦しみ」に通じるからです。1月7日に片付けるのは「陽数の1」と「陽数の7」を足すと「陰数の8」となり「八」は末広がりで縁起がよいからです。

鎌倉末期、吉田兼好(よしだけんこう、1283~1352頃)の「徒然草」十九段では京の都の元旦の情景を下記のように記しています。

 かくて 明け行く空のけしき 昨日に変わりたりとは見えねど
 引き替へ めずらしき心ちぞする。
  大路のさま 松立てわたして 花やかにうれしげなるこそ 又あはれなれ
                               
あわただしかった大晦日、明けゆく空の景色は昨日とは変わっていないはずなのに、
さすが京の都の新年よ。都大路には門松が立てつらなって、花やかに嬉しげだと感慨を深めています。

また室町時代に出典は明らかではないようですが、あの一休和尚(1394~1481)が詠んだとされる狂歌では

 門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし

と、ちょっと皮肉ぽっい歌ですが、この時代には、門松がお正月の飾り物として定着していた様子がわかりますね。ところで当社の門松は境内四箇所に設置しています。竹は兼務しています大宮神社の竹を利用し伐採した梅と松を切ったままの状態で、松・竹・梅を何の飾り付けもしないで地面に埋めています。当初の史料によりますと昔は松と榊を地面に埋めていたということになっています。その由来は「末代まで栄える」という意味で松と榊を使用していました。

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丙申について

丙申について
新しい年を迎え、諸兄姉のご健勝とご多幸を祈念申し上げ、諸兄姉と共に、天皇皇后両陛下のご健勝と皇室の弥栄と、日本国の安泰を切に祈り申し上げます。神職にとって一年で一番忙しい時期でもある正月三が日を乗り切り、四日からの会社関係の初出の祈願も無事に済み、一段落したところで久しぶりにブログを更新します。

ところで今年は丙申(ひのえさる)の年です。十干十二支では33番目に当ります。暦学の観点から2016年 平成28年 丙申(ひのえさる、へいしん)を占います。

「丙」は陰陽五行でいえば火の作用が働きます。「丙」は火の兄であるから「ひのえ」と呼びます。「丙」の字源には、あきらか・さかんという意味もあり、迷うことも無く白黒を付けて進むべき道を明らかにして繁栄させる意味があります。ただすべて平等に繁栄させなければなりません。「丙」の火の作用は横に燃え広がる性質を持つためです。

次に「申」についてですが、「申」の字に人偏の「人」を入れますと「伸」の字になり伸びるということになります。物事が進歩発展し、成熟に至るまでの伸びをあらわすことが「申年」です。

そのことから「丙」と「申」を組み合わせる2016年 平成28年 皇紀2676年「丙申」は事によって国際問題・経済問題あるいは家庭内問題が表面化する事により問題を解決する決断力、行動力が必要となる年です。昨日の北朝鮮の水爆実験なども安倍政権が指導力を発揮し外憂を整理してゆくことが必要です。

人類の歴史の周期は大体60年から70年で動くと言われています。私は東洋人の歴史の周期は60年ぐらいで回るのだと考えています。人間で言えば還暦の周期です。誕生から60年後のサイクルで歴史は動くのです。この60年のサイクルは、中国の知恵で言えば、十干十二支干支と同じです。

このことから60年前の「丙申」の年、昭和31年(1956)を参考に見てみましょう。昭和31年の7月の経済自書発表で「もはや戦後ではない」と言う言葉が流行語になりました。10月には日ソ国交回復共同宣言の批准書が交換され、ソ連が対日宣戦を通告して以来11年4か月ぶりに日ソ間の国交が正式に回復しました。12月には国連総会で全会一致で日本の国際連合加盟が可決されました。

過去にも日本の国連加盟については昭和27年(1952)6月日本は国際連合に加盟を申請しました。その時には国連安全保障理事会では10対1の圧倒的多数の賛成を得ましたが、ソ連が拒否権を発動したため、否決されたのです。

防災から60年前の昭和31年を見てみます。
3月20日ー秋田県能代市で大火、1400戸焼失。
8月19日ー秋田県大館市で大火、1321戸焼失。
9月10日ー富山県魚津市で大火、1755戸焼失。

戦争から見ます。
10月ー第2次中東戦争(スエズ戦争)勃発。イギリスとフランスがイスラエルと共同して、 
   エジプトに対する軍事行動を起こした。

以上のことから、平成28年は大火に注意、国際情勢では中東戦争の危機、対外的にはロシアとの北方領土問題、60年前の昭和31年2月9、10日の衆参両院「原水爆実験禁止要望決議」を採択されたことから、北朝鮮の核実験が再び行われる可能性が有り、と言うことです。因みにラッキーカラーは「赤色」です。





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