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靖国神社の創建とその意義 

靖国神社の創建とその意義 
8月15日に安倍総理大臣は靖国神社に参拝を希望していたのですが、米国政府の意向で代拝となりました。米国政府の強い説得があって参拝が中止となったのは安倍総理大臣が最初です。米国政府が日本と中国との摩擦にを恐れた結果です。それだけに米国の経済力の低下と軍事力の衰えと中国の台頭が目立ってきたと言うことです。

今年の米中会談で習近平国家主席の「ハワイから西の太平洋は中国が支配し、東側は米国が支配する」と言う内容が伝えられています。それだけ米国は「世界の警察」と言っていたときから比較すると天と地の衰えが著明になった、ということです。日本国は日本人だけで防衛する時代を構築しないと明日の平和がありません。

ところで本日は靖国神社の創建について記載します。私が尊敬する吉田松陰先生は、「志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず」と言うことを松下村塾の塾生の高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、前原一誠等に教えられました。すなわち、草莽の志士は、変革の実現のためには、溝や谷に落ちて屍をさらしても構わないと常に覚悟することを教えたのです。これは孔子の言葉ですが、志を遂げるためにはいかなる困難をも厭わず、死も恐れないという意味です。

しかしながら志士たちは、国事に奔走して死んでいった同志の霊魂をどのように弔うか、生き残った志士たちの最も重要な課題でした。その現れが文久2年(1862)5月25日、久留米の水天宮、宮司真木和泉守が楠公祭で池田屋事件の殉難者を神式でお祀りしたことです。これが殉難者を祀った最初の例だと思います。

 次に文久3年(1863)7月、津和野藩の国学者福羽美静(ふくばびせい)等は井伊直弼の安政の大獄により刑死や獄死した46柱を京都祇園社境内に祠を創建しました。しかし、残念ながらこの小祠は幕府によって壊されました。一旦46柱の霊璽は福羽家に移され、祭祀が続けられました。私祀と言うことです。福羽家に造られた小祠は後に靖國神社に移されています。これが「元宮」です。

 同じ時期の文久3年(1863)6月、長州藩は尊王攘夷のため下関砲台からアメリカの商船を砲撃しました。この事件を記念し、下関に奇兵隊が管理する招魂場を建設する事が決まりました。発案者は高杉晋作です。そのことから元治元年(1864)5月19日に、「招魂場」を下関新地の岡の原に創建されました。さらに慶応元年(1865年)8月6日には社殿が完成し、招魂祭が執行されました。日本初の招魂社が創建されたのです。下関招魂場です。後の桜山神社です。

つまり、ここで重要な点は社殿に先立って招魂場は完成していたことです。これを踏まえて靖国神社の前称が「東京招魂場」であります。それ以前は高杉晋作が「招魂場」と称していた経緯をみれば、靖国神社の創建の意義が初めて理解されると思います。

ところで、この招魂場には、当初、文久3年(1863)5月10日に始まる下関攘夷戦において戦死した奇兵隊の霊を弔うものでしたが、後の小倉口の戦い(四境戦争)や戊辰戦争で戦死した者、そして長州の尊皇討幕運動に名を残こす吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、山県有朋らの霊も加えて、今日では396柱の志士がここに祀られています。吉田松陰先生が、神霊碑の最前列中央に祀られています。3月後半、桜の季節に桜山神社をお参りするのがよいと思います。

慶応元年8月6日の招魂祭には高杉晋作や奇兵隊全員が参列し若き日の山県有朋も参列しました。そのときの高杉晋作の漢詩文が残っています。

 猛烈の奇兵 何の志す所ぞ
 一死を将(も)って 邦家に報いんと要す
 尤(もっと)も欣(よろこ)ぶ 名を遂げ功成りて後
 共に弔魂場上の 花と作(な)らんを

 弔らわる人に入るべき身なりしに
 弔う人となるぞはずかし 

高杉晋作は「死んで弔われる人に入っているべき自分なのに弔う人になってしまうとは恥ずかしい」と言っていますが、その裏には「祀る者が、いつか祀られる」という気持ちがあります。そこには死に場所、霊魂の所在が「共に弔魂場上の花とならん」、言い方を今風に変えれば「死んだら靖国神社で会おう」と言うことになります。

慶応4年・明治元年(1868)5月10日、太政官布告で、京都東山に安政の国事殉難者を一社で建立し祀ることを布告されます。これが後の霊山護国神社です。

同年6月2日、招魂祭。江戸城西丸大広間にて招魂祭が行われています。これは関東における戊辰戦争で没した官軍将兵を招魂し弔いました。

これらの気運と経緯から明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって東京招魂社が創建されました。明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた御製があります。

我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき

この御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えようとの明治天皇の大御心が理解できます。それが明治12年(1879)に「靖国神社」と改称されて今日に至っています。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。





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