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「明けましておめでとう」について

「明けましておめでとう」について

お正月の挨拶は「明けましておめでとう」です。でも、どうして「おめでとう」なのか、何がおめでたいのか、についてお話しいたいます。
古い言葉に「盆と正月が一緒に来たようだ」という言回しがあります。この言葉の「盆」と「正月」とは、日本古来の神道の「神祭り」の行事なのです。

古代より神道の「神祭り」とは、私たちに恩恵をもたらしてくれる「神霊」をお迎えして、神人和合の時をすごすものです。簡単に言いますと神さまと同居することなのです。

「古事記」にも登場する少彦名命(すくなひこのみこと)も常世(とこよ)からくる常世(とこよ)神(かみ)です。折口信夫先生の言葉で言えば「マレビト」であり、「外来神」です。神というより「精霊」といったほうがいいのだと折口信夫先生は言っておられます。「神」の観念が発生する前は、精霊や魂(たま)でした。

ところが時代の流れと共に、お盆にお迎えするのは、「御先祖さま」、お正月にお迎えするのが「歳神さま」と区別されるようになりました。しかしどちらも原点は「生命の根源」である常世からやってくるとされていました。

お正月に、注連飾りをして門松を立てるのは、単なる慣習ではありません。「歳神さま」をお迎えするために、家の中を掃除するのは祓い清めの名残です。神さまの御座としての準備の意味があるのです。宮司の私もお正月まえに散髪をしてイケメンにするのも「ご先祖さま」と「歳神さま」をお迎えするためです。その後、正月午前零時に神殿に於いて元日祭を執行します。

「歳神さま」は、私たちにその年の生命、寿命、健康を授けて下さいます。これ歳神さま」からの賜り物トシ神さま」からの「タマわりもの」としての「トシタマ」すなわち「お年玉」なのです。

本来の「お年玉」はお小遣いではなく神さまからの「賜りもの」なのです。だから、楊枝子供でなくても、何歳になってもいただくことができるのです。この生命、寿命を「歳神さま」から賜ることがあってこそ「おめでたい」のです。当社の言い伝えでは1月15日まで「歳神さま」は同居され、夜の「どんど焼き」で帰られるということでした。

今は防災上の問題があり、当社では「どんど焼き」は中止しています。その代りに当社から授かった塩を、その年の恵方の方角に撒いて「歳神さま」をお帰りしていただいています。


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恒例の一般参賀

恒例の一般参賀

天皇陛下には旧臘(きゅうろう、臘は陰暦12月の意味です。去年の12月をいいます。新年になってから用いる言葉です)23日、満84歳の御誕生日をお迎へになられました。宮中三殿では天長祭が執り行われました。

さらに宮内庁の発表によりますと、平成30年1月2日に皇居で行われた恒例の一般参賀に陛下は5回お出ましになられ、お祝ひ申し上げる人々にお応えになられました。参賀者が計5回で12万6720人(速報値)となり、平成に入り過去最多を更新しました。

これまでは、皇太子妃雅子さまがご成婚後初めて参列された平成6年、11万1700人(計8回)の参賀者が最多でした。

午前10時10分からの1回目の一般参賀では、陛下がマイクを通じて

新年おめでとう。皆さんとともに新年を祝うことを誠に喜ばしく思います。本年が少しでも多くの人にとり、穏やかで心豊かな年となるよう願っております。年のはじめにあたり、わが国と世界の人々の幸せを祈ります。

と新年の寿詞を述べられました。

陛下の譲位日が平成31年4月30日と決定されてから初めての新年一般参賀でした。また秋篠宮文仁親王の御長女、眞子内親王が今年11月にご結婚なさるため、今回が最後のお出ましとなりました。

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神職の世襲について

神職の世襲について
年の瀬も押し迫るなか、都内神社における凄惨な事件が神社関係者をはじめ広く世間を驚かせました。「稲蓬莱」を氏子地域の会社や氏子さんたちの家々を回っていますと、富岡八幡宮のことについて質問を多々受けました。

当社は神職が私を含めて3名、富岡神社は12名の神職が奉職されています。富岡家と同様に当社も花谷家が代々宮司職を継承する社家です。先代からも「神社は神さまから預かったもの」であり、神職個人のものとは違うということを徹底的に躾けられました。

宮司とはそのお宮を代表する神職で、祭祀や社務などを主管する立場にあります。当社では禰宜が長男で、私の妻が権禰宜の職にあります。禰宜とは「祈ぎ(願い)」の語義で、神に祈請する者の意味があります。具体的には、宮司を補助して祭祀や社務をおこなう立場にあります。この禰宜を補佐する役目として権禰宜の職があります。

平成29年度、神社本庁に加盟している全国の神社は約8万社ほどあります。全国の神社の約98%が神社本庁包括下の神社です。そして神職は全国に約2万2千人おられます。しかし職員が宮司一人しかいない小規模な神社が多数あり、特に過疎地域においては、一人の神職が数十社もの神社の宮司を兼務している場合が多く見られます。私の友人は30社の宮司職を兼務していています。

ところで宮司の兼職率は全体で45%だと思います。経済的な理由から神職の兼業率が多いのです。教員や公務員、農協の職員など様々です。その兼業している宮司の子弟の兼業率は70%以上になると思います。神社の年間収入が300万円未満のところは6割強に上ります。

実は私も兼職しています。学校法人森ノ宮医療学園の理事をしています。学校法人森ノ宮医療学園は鍼灸師と柔道整復師を養成する専門学校と針灸学科・看護学科・理学療法学科・作業療法学科・臨床検査学科を要する森ノ宮医療大学があります。

さらに私は神社の社務所で針灸整骨院を開業しています。禰宜の息子は音楽家です。神社界では変わり者で通っていますが、息子も私も皇學館大学を卒業しています。

鶴見神社の社格は村社で大規模な神社ではなく、小さな神社で、しかも父ちゃん・母ちゃん・兄ちゃんの三ちゃん神社です。宮司と言えども氏子の各家庭を回り「稲蓬莱」のご寄進を頂くこともあります。

宮司は神社の神さまに祭祀・神事を司る「聖なる部分」と宗教法人の代表役員として神社の維持・管理のため対外的には法人を代表する活動を行ない、対内的には氏子・崇敬者、役員、総代といった様々な立場の人々を統括し調整する役目、「俗なる部分」があります。

世襲の神職が注意しなければならないのは、「神社は神さまから預かったものであるという自覚と祭祀・神事に勤しむ」ことです。それと「神社の物と個人の物との区別」を明確にすることです。そして「氏子があっての神職」という意識です。

宗教法人格を有している神社は一般企業と比較し、固定資産税などの税金面で優遇されています。それはあくまでも地域の文化や伝統を後世に残すという役目と地域のコミュニティやお祭などで地域の絆を深める場所、という役目があるからです。また地域の活性化や街づくりに神社は大きな役目を果たしているからです。そのことから神社は「個人のものではなく神さまのもの」という意識が神職には大切です。

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「天津永世の伝」

「天津永世の伝」
白川神道の行法の一つに「天津永世の伝」と呼ばれるものがあります。「息吹永世の伝」とも呼ばれています。これは無声の祓です。重要な神事の前に行います。神殿で先ず正座して目は半眼にして前方1mぐらいを見て、静かに鼻から息を吸い込み口から細く吹き出します。臍下丹田の呼吸法です。

一見簡単に見えますが、なかなかリズムを取るのに難しいです。白川家の門人であった井上正鐵(まさかね)は、その著「神道唯一問答書」の中で「御祓は務めやすく、永世の伝はつとめがたく候」と述べている通り彼も苦労したのでしょう。

実際に「天津永世の伝」を行う前と終わった時の血圧測定しますと血圧は下がります。「天津永世の伝」を行うと「心の禊」ができ、すかすがしい境地になり、「神気」を自覚することが出来ると伝えられています。

平成29年11月23日午前7時に「新嘗祭」を斎行しましたが、その1週間前から斎戒します。毎夜7時前後、夕拝時に「天津永世の伝」を行いました。「天津永世の伝」は無声の祓いですが、「新嘗祭」を控えているので和久産巣日神(わくむすひのかみ)」を何回も心で唱えながら呼吸法を行いました。和久産巣日神は農耕で豊穣をもたらす生産の神さまです。

新嘗祭が終了しますと、今度は三島由紀夫大人命、森田必勝大人命の野分祭を三重県四日市市で執り行わなければなりません。11月24日の夕拝から「天津永世の伝」を行いました。自決された森田さんの墓前で野分祭を斎行するのですから、呼吸法をしながら「なぞてすめろぎは人間となりたまひし」を心の中で唱えました。

そして11月25日正午、森田必勝大人命の墓前で47回目の野分祭を斎主として斎行しました。たかが墓地は一片の石ではないかと言われるかもしれません。その一片の石から歴史を変えさせるのが私の斎主としての役目です。

神戸市の湊川神社の境内にある楠木正成の墓碑があります。その墓碑が明治維新を成し遂げたのです。明治維新の成し遂げた若き志士たちの多くが楠公を敬慕したのです。楠公の「七生まで同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさん」という最期の言葉から「死生観」を学びとったのです。

吉田松陰先生、西郷隆盛、真木和泉守、楠公の墓に参り自分たちの志を励まし勇気づけたのでした。楠公の墓碑には「神州正気の精」が鎮められているのです。

森田さんと三島先生が言いたかったことは「天皇国日本を護る」ことだと思います。そのことから「護国の鬼」として、生きても亡くなっても働けるようにと魂魄をこの世に留めてくださいと祝詞で奏上させてもらいました。
 

先生と森田必勝さんには死して死なない「神州正気の精」があります。先生の檄文を見れば分かります。
 
今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。
それは自由でも民主主義でもない。日本だ。
われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。

この最期の言葉を「死ぬことによって生きかえる」ように神事で行いました。これが白川神道の真髄です。先生も森田さんも我が国の危機においてこれからも蘇ってきます。すでに蘇っておられます。森田さんの慰霊碑は一片の石からできていますが、そこには「神州正気の精」「七生報国」の「霊魂」が宿り、志を継ぐものに勇気と活力を与える場所となります。そして日本を歴史と伝統の国として復活させてくれます。

これから若き志士たちが目覚める時代です。




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47年の野分祭

47年の野分祭
昨日の平成29年11月25日土曜日正午から三重県四日市市大治田にある霊園で森田必勝さんの47年目の野分祭を斎主として斎行しました。今回は主催の三島・森田事務所から大阪市の鶴見神社宮司を斎主として自決された森田必勝大人命の墓前で野分祭を、同時刻に横浜市鶴見区鶴見の鶴見神社では金子宮司を斎主として三島由紀夫先生の慰霊祭、野分祭を同時に斎行する、と言うことに決まりました。

思えば昭和45年11月25日当時、私は20歳、森田さん25歳、三島先生は45歳でした。
東京は市ヶ谷の自衛隊駐屯地で先生と森田さんが自決されたのは47年も経ちますが、先生の檄文の言葉や森田さんの志は決して忘れることはありません。

当時、私も楯の会に入会するために三重県久居市の陸上自衛隊第10師団第33連隊に入隊し訓練を受けていました。楯の会事件が起きていなかったら森田さんの勧めで楯の会に入っていました。

男の私が言うのもおかしいけれども、森田さんは笑顔がとてもかわいい人でした。よくサントリーレッドをコーラーで割って飲み憲法改正して自衛隊の国軍、自主憲法・自主防衛の話しを聞かされました。森田さんは、ハイライトを吸われていましたが、先生と違いタバコの本数は決められていました。先生は缶ピースを好まれ大変なヘビースモーカーでした。生きておられたら先生は肺がんになられていたのではないかと思います。

森田さんは少々肥満気味で、あるときなど「タバコをやめたら太るし新聞配達のアルバイトもしたけれどやせない。花谷、どうすればお前みたいにやせられるのか」。当時、私は森田さんの悩みは肥満だと思っていました。まさか昭和45年9月ごろ、「墓参りに四日市に来ている」という電話が最期になるとは思いませんでした。

あの時に伊勢市から四日市まで出かけて森田先輩と会っていたら、と随分悩みました。

私は森田さんのことを先輩とお呼びしていました。そのことから森田さんと一番親しいくされていた伊藤好雄さんのことを今でも先輩と言っています。亡くなられた元楯の会の阿倍勉さんや持丸博さんも先輩と呼んでいました。

今年の8月、元楯の会の勝又先輩と伊藤先輩が当社に来られ、横浜の鶴見神社では主に三島由紀夫大人命の野分祭、四日市市大治田の慰霊碑では森田必勝大人命の野分祭を大阪の鶴見神社の宮司が斎行してほしい、と言うことでした。横浜の鶴見神社も大阪市の鶴見神社も兄弟関係同様なので承諾しました。「身罷った森田と宮司は親しかった」ということも言われましたので11月25日の土曜日は鍼灸の治療は休診としました。患者さんには申し訳ありません。また七五三の参拝が多いのなか、私を含めて2名の神職がいなくなるのですから、禰宜の息子には申し訳ないと思っています。

47年祭、野分祭を斎行するために、昨日は午前10時20分に森田家の墓前と森田さんの慰霊碑の前に到着し、神事の準備をしました。私を含めて神職2名の神事です。野分祭を執り行うために装束の着装の場所が必要となります。そのため森田さんのお兄さんの家で装束の着装をさせていただきました。そのときに仏壇にもお参りさせてもらいました。

私は「斎服」(さいふく)に冠(かんむり)、当社の神職は「浄衣」(じょうえ)に烏帽子(えぼし)を被り、野分祭を斎行しました。ただ森田家から慰霊碑まで自動車に乗せてもらいました。

森田さんの慰霊碑の前には元楯の会会員、伊藤先輩を含んで18名と警視庁の公安警察1名が参列されていました。野分祭は時間通り正午に斎行しました。

私が鶴見神社宮司として自決された先生や森田先輩の慰霊祭を斎主として斎行するとは考えもしなかったことです。野分祭終了後、森田家のご好意で自宅の仏壇の前で直会(なおらい・共飲共食儀礼)となりました。

直会終了後、元楯の会の三宅孝生先輩の津市にある店で懇親会を開催しました。午後5時から午後7時まで飲みました。先輩たち、50年目の野分祭まで長生きをして下さいね。


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神宮は聖地

神宮は聖地
ウィキペディアから聖地の意味を検索して記載します。

聖地(せいち、英語: sacred place, holy ground, holy site、ヘブライ語: הארץ הקדושה‎)とは、特定の宗教・信仰にとっての本山・本拠地・拠点となる寺院・教会・神社のあるところ、またはその宗教の開祖・創始者にまつわる重要なところ、あるいは奇跡や霊的な出来事の舞台となったところをいう。

エルサレムには3つの聖地があります。キリスト教の聖地「ゴルゴタの丘」・ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」・イスラム教の聖地「岩のドーム」です。それもあまりにも近すぎる所に聖地があります。

「ゴルゴタの丘」について新約聖書には、ここで弟子のイスカリオテのユダの裏切りを受けたイエス・キリストが十字架に磔にされたと書かれています。そして「聖墳墓教会」が建てられ、キリストの墓がある、とされています。キリスト教の聖地ということになります。

ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」は、ユダヤ人の祖先であるアブラハムが、旧約聖書の中で神から信仰心を試され、そして信頼を獲得するというとても重要なシーンの舞台なのです。

イスラム教の聖地「岩のドーム」の他に2つの聖地があります。生誕の地「メッカ」と
.次に移動した「メディナ」です。

「岩のドーム」はムハンマドの昇天伝説の地に建てられ、イスラーム教の聖地とされています。

キリスト教・ユダヤ教・イスラム教 という三つの宗教の聖地がエルサレムに集中しているのです。

一度、エルサレムに行って見たいと思っています。

神道の聖地はやはり伊勢の神宮です。国内にあまたある神社の頂点に立つ神社、いわゆる「総社」であり、正しくはただ「神宮」というのが、正式な称号です。そしてそれは、皇大神宮である内宮と、豊受大神宮である外宮を中心とする、125社の神社群の総称です。つまり、境内の別宮、摂社・末社に至るまで、すべて「神宮」なのです。

神さまへのお供え物を神饌(しんせん)といいますが、現在、神社でお供えされる「神饌」のほとんどは「生饌」(なません)です。それに対して、調理して供える神饌を「熟饌」(じゅくせん)があります。神宮の熟饌の調理には「忌火(いみび)」と呼ばれる清浄な火を使用しています。「忌火」は木と木を擦(す)りあわせる「舞錐式発火法(まいきりしきはっかほう)」により、火をきりだす「御火鑚具(みひきりぐ)」を使用しています。

内宮、外宮ともに、神さまの台所である忌火屋殿で御火鑽具を用いて清浄な火をきり出し、この火を使ってお供えものを調理します。

外宮のご祭神が、御饌都神の豊受大御神さまであることから、外宮のみにある御饌殿(みけどの)では、毎日朝夕の2度、天照大御神さまをはじめ、豊受大御神さま、各相殿神(あいどのかみ)、各別宮の神々に大御饌(おおみけ)をたてまつられております。

このお祭りを「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうのおおみけさい)」といい、禰宜(ねぎ)1名、権禰宜(ごんねぎ)1名、宮掌(くじょう)1名、出仕(しゅっし)2名により奉仕されます。もちろん御火鑚を使用して神饌を調理します。

伊勢の神宮の日別朝夕大御饌祭は、1500年もの昔から、1年365日、雨の日も風の日も欠かさずに、朝夕2度、神饌をお供えするお祭りがなされています。

「悠久」という言葉が神宮にあります。しかも国家の反映と世界の平和を祈る場所でもあるのです。神宮は日本だけではなく、世界の神宮だと思います。

また神宮にはエルサレムも三つの聖地と違い、自然に満ちています。自然はたくさんの恵みを与えてくれるありがたい存在ですが、恐ろしい反面も持ち供えています。我々日本人の先祖は自然界の一つ一つの働きに神さまの何か大きな力の働きを感じて「ありがたい」し「恐れ多い」と思ってきました。そこから発生したのが万物に「感謝と祈り」の精神と生活です。

またキリスト教・ユダヤ教・イスラム教の一神教ではないので、仏教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒・イスラム教徒でも受け容れてくれます。一神教の信仰者からみれば「日本人の宗教心は何といい加減な」と思うでしょうが、日本人にとってはそれがおかしなことでも何でもない、ごくごく普通のことになっています。

平安末期の僧侶であり歌人で有名な西行は伊勢の神宮にお参りして、このような歌を残しています。

なにごとのおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼれる

また吉川英治さんが、お伊勢さんにお参りし、その感動を詠んだ歌があります。

ここは心のふるさとか そぞろ詣れば旅心 うたた童にかへるかな

昭和42年(1967)に来日されて神宮に参拝に来られた英国の歴史家アーノルド・トインビーは

この聖地において、私くしは、すべての宗教の根底に潜む統一性を見出す

と気帖しています。



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紀元二千六百年

紀元二千六百年

今日は平成29年11月10日です。77年前の今日、昭和15年1940年(1940)11月10日、宮城前広場において昭和天皇・香淳皇后臨席の下に内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催されました。

当時、我が国では11月14日まで全国各地で神事や祝賀会、記念行事が繰り広げられました。当社でも盛大に式典が行われ、大阪市の役員たちが出席し、「万歳旛」を2対寄進されました。今では一宗教法人に公共機関が寄進することはないですね。

ところでお正月の年賀状に、私の友人たちは「皇紀2677年元旦」、「皇暦」で年号を書いてきます。そもそも「皇紀」とは、明治5年(1872)に制定された日本国独自の日本紀元です。

世界中にはバビロニア暦・ユダヤ暦・ヒンドー暦・イスラム暦・仏滅紀元等が残っています。世界中で使用されている西暦はイエス=キリスト生誕年を基準として年代を数える西暦の紀年法です。525年に考案されイスラム圏を除きほぼ世界共通の紀年法となっています。

イスラム圏では、開祖ムハンマドが迫害により、故郷のメディナに脱出した西暦622年7月16日をもってイスラム歴元年とするヘディラ紀元があります。タイでは仏歴が採用され、西暦に543年を足したものになっています。

「皇紀」を計算するのは簡単です。西暦に660をプラスすれば「皇紀」が分かります。例えば来年は2018年です。2018+660=2678になります。来年は皇紀2678年です。
建国されて2678年となります。それではわが国は紀元前660年に建国されたことになり、皇紀元年は紀元前660年です。

それではなぜ、紀元前660年に建国された理由は何処にあるのか、と言うことになります。その理由を説明します。

推古天皇の時代の辛酉(かのととり、しんゆう)の年は西暦601年です。聖徳太子が活躍された時代です。その時代、中国の讖緯説(しんいせつ)が我が国に影響を与えました。讖緯説とは大きな革命が21回目の辛酉の年、1260年に一回来るという考えをもっていました。

今年は2017年は丁酉年(ひのととりどし)です。来年の2018年は戊戌年(つちのえいぬどし)です。十干十二支で言えば同じ丁酉年は60年後の2077年に、戊戌年は2078年にめぐってきます。60年一度、元に戻るのが十干十二支です。今年生まれた子供が60年後の丁酉年に行うのが還暦のお祝いです。元に戻ったという意味でのお祝いです。

讖緯説は辛酉の年が21回めぐるときですから、21×60=1260と言うことになります。

その時代、聖徳太子は我が国の歴史書を編纂する事業に取り込んでおられました。歴史書は年代が必要です。推古天皇は33代の天皇です。推古天皇の辛酉の年、西暦601年から1260年前を引くと辛酉の年が初代天皇の神武天皇が即位式された年数になるようにしたのです。それが紀元前660年になります。

ところが前述した推古天皇は推古天皇は33代の天皇です。32代までの天皇の1260年という期間に当てはめながら遡ったために、最初の方の頃の天皇は年齢が100年以上くらい生きている計算になってしまいました。初期の天皇の年齢がカサ増しされたのでしょう。

歴史的事実からすれば皇紀元年がいつかは正確にはわかりえないということになります。文字で記録されていないから、あてにならないという考えもあります。当時は神話のような伝承で伝えられたのです。今との人は文字やPCで残せますが、記憶力は衰えてきます。

その時代の語部は想像以上に記憶伝承されているのです。

西暦の紀元となっているキリストの生誕ですら賛否両論があります。2017年前に生まれたという説が主流というわけではないです。しかし日本のすごいのは歴史的事実ではないけれど、天皇陛下がおられ、昔ながらの宮中祭祀を執り行われていることです。しかもそれが今も続いているのです。

日本人のご先祖を求めると神話につながってしまわざるを得ない不思議な国なのです。我が国の紀元が正確にわからないほど古い国、それが日本の国柄というものです。それも世界最古の皇室と国民が共に歩んでできた国なって凄いと思います。

それで77年前の今日、皇紀2600年祭が行われたのです。

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10月のブログを更新できなかった理由

10月のブログを更新できなかった理由
10月はブログを更新させていません。皆さんから入院されたのか、病気になられたのか、問い合わせが相次ぎました。確かに10月14・15日は当社の秋の大祭があり潔斎しなければなりませんが、しかしブログを更新できない理由ではありません。

実は今年の夏に野分祭(のわけさい)の斎主を依頼されました。野分祭は昭和45年11月25日に自決された三島由紀夫先生、森田必勝さんの慰霊祭のことです。

野分祭は平成29年11月25日、土曜日・正午、三重県四日市市大治田にある森田必勝さんの墓前で執行することになっています。そのことがありブログを更新でないほど、10月初旬より先生や森田さんを犬死させてしまったのか、47年間自分は何をしてきたのか、という問題に直面し悩んでしまったのです。

しかし何はともあれ野分祭を引き受けたのであるから野分祭の祝詞を作成しょうとすると涙が流れて思うように進めないのです。

平成5年11月25日の奈良県天理市の大和神社に執り行われた野分祭(二十三年祭)の斎主のときも同じ状態でした。

「楯の会事件」、若い人たちには知らない出来事でしょう。また遠い過去の事件ですから当然です。しかし私にとっては大きな出来事でした。

昭和45年11月25日、三島由紀夫先生が自ら組織された「楯の会」のメンバー、森田必勝さんを含めて4名で東京都新宿区市ヶ谷にある陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れて東部方面総監を監禁、自衛官を集合させて「日本を守るとは何だ。日本を守るとは天皇中心とした歴史と文化を守ることなのである」といって先生がクーデーターへの決起を促す演説をされました。

しかし自衛官からヤジを浴び相手にされず、演説をやめて先生は総監室にもどり「楯の会」の学生長の森田さんと自決された事件でした。残る三人は逮捕されました。

自決当時、私は20歳、三重県伊勢市の皇學館大学の学生で国防研究会に所属していました。森田さんは25歳、三重県四日市市の出身で2浪されて早稲田大学の教育学部へ入学されていましたが、自決当時は退学されていたと思います。

昭和44年5月に民族派の学生組織、全国学生自治体連絡協議会(通称全国学協)の大会が東京都の九段会館が行われました。私は参加するつもりで上京しました。泊めてもらうところがないので楯の会1期生の阿倍勉さんに連絡をしたところ「俺のところはだめだ、森田のところへ行け」といわれたので新宿の森田さんのところに世話になったのがご縁でした。

伊勢市から来たということもあり、また森田さんは早稲田大学の国防部に所属されていたこともあり、心情的にも共通する点もあって文通することになりました。昭和45年1月、森田さんからの年賀状をもらいましたが、「俺の恋人、誰かと思う。神が作った日本国、今年もよろしく」」と言うものでした。昭和45年9月中旬だと記憶していますが、森田さんから電話で「今、四日市に墓参りに来ている」というのが最後のでした。
 
そんなこともあって昭和45年11月25日の自決は人生最大の衝撃を与え、そのショックでどのような学生生活をすごしたのかはあまり思い出せないのです。同級生に聞くと武闘派の民族派として新左翼系の全学連に殴りこみをかけたり、一人一殺を標榜したりして公安警察にマークされていたと言う事でした。

ただ「楯の会」事件の裁判のことは記憶にあります。昭和46年3月23日、第1回の楯の会事件の公判が東京地裁で行われました。何度か上京し渋谷にあった全国学協の事務所に泊めてもらい、委員長の吉田良二さんから「大丈夫か、過激なことは慎むように」と何度も注意されました。そのことは覚えています。

第10回公判のときに森田さんのお兄さんを初めて見ました。当時は中学校の教師をされていたと思います。第17回公判、昭和47年3月23日、開廷まもなく最終弁論が始まろうとする時に吉村さんともう一人が「裁判長の陽明学は偽者だ」と叫んで退廷されました。
裁判長から「今後、同様の発言したら処罰する」と警告したのですが、私は「裁判長を訴追するぞ」と発言した瞬間、坪井一夫先生の門下が私に続き4名ほど大声で叫び私たちは拘束退廷されました。吉田良二さんの恐れていたことが起こりました。

私は今年で67歳になります。47年間、森田さんのことは忘れたことがありません。亡くなった三浦重周が毎回「憂国忌」の案内を電話や文面で連絡してくるのですが、何もできない自分が恥ずかしいので断ってきました。

ただ平成5年11月25日の23年祭の野分祭と今回も同様、斎主としての依頼なので引き受けさせてもらいました。ここは自決された先生と森田さんへの感情を抑えて祝詞の内容を考えて作成しょうと思っております。前回の野分祭のときは吉田松陰先生の辞世の句を吟じて祝詞が作成できました。

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

今回の平成29年11月25日の野分祭に向けての祝詞作成は西郷隆盛先生の「獄中感有り」を吟じて書いています。

朝に恩遇を蒙り夕に焚坑せらる
人生の浮沈 晦明に似たり
縦(たと)い光を回さざるも葵は日に向こう
若し運開くなくとも意は誠を推す
洛陽の知己 皆(みな)鬼と為り
南嶼(なんしょ)の俘囚 独り生を窃(ぬす)む
生死何ぞ疑わん 天の付与なるを
願わくば魂魄を留めて皇城を護らん





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長屋王の邸宅跡地

長屋王の邸宅跡地

昭和63年(1986)8月、奈良そごう工事現場(現イトーヨーカドー奈良店)から長屋王(684年~729年)の邸宅跡と考えられる10万点にのぼる多量の「木簡」が発掘されました。それを「長屋王家木簡」と言います。発掘調査は奈良国立文化財研究所が行いました。

出土した木簡に記された文字の中に、加須津毛瓜(かすつけうり)、醤津毛瓜(ひしおつけうり)という文字が記されていました。この中の「津」は、ひたひたの状態を表し、ドブロクの上澄みを酒として飲み、 下に溜まったドロドロした中に塩漬した野菜を漬け込んだものではないかと考えられ、奈良漬の原型ともいえるものがあったと思われます。

当時のお酒は、濁り酒といってドロドロしていたお酒であったので、その中に塩漬した野菜を漬け込んだのではないかと考えられます。

しかし長屋王が飲まれていたお酒は「長屋王家木簡」から知ることができました。左大臣長屋王の邸内の酒司(さけのつかさ)・御酒醸所(おんさけかもしどころ)には甑(みか)が据えられており,それらの甑のいくつかには甑ごとに酒の仕込配合が録されていました。赤米やこうじ、水の配合が異なる6種類の酒が記されていました。ドブロクの白酒ではなく、赤い色の清酒に近いお酒を長屋王は飲まれていたのです。

「日本書紀」には都祁(つげ)の氷室(ひむろ`の起源説話があり、夏に長屋王が氷を入れた酒を楽しんでいた、といわれています。  

ところで長屋王は天武天皇の長男高市皇子(たけちのみこ)の子で、母は天地天皇の皇女、御名部皇女(みなべのひめみこ)。妻は吉備内親王(きびないしんのう、草壁皇子と元明天皇の次女)です。

長屋王は、神亀元年(724)に最高職の左大臣に就任し、聖武天皇を盛り立てて政治を行なっていました。神亀6年(729)2月10日、皇位継承にからみ、謀反の疑いで館を囲まれ、夫妻と四人の皇子が自害に追い込まれました。世に言う長屋王の変です。

この変は、藤原不比等の四人の息子、武智麻呂・房前・宇合・麻呂が仕組んだという陰謀説だといわれています。8月に天平と年号が変わり、藤原不比等の娘、光明子が皇后となり皇族以外から立后された最初の例となりました。

「万葉集」に長屋王一族の死を哀れんだ倉橋部女王(くらはしべのひめおおきみ)の詠まれている歌があります。倉橋部女王は「万葉集」の中にしか出てこない女性なのです。従いましてどんな女性なのか、はっきりはわかりません。

「万葉集」が編集された当時は、無実の罪で自害に追い込まれた長屋王への同情は、自分身も危険なことだったにちがいありません。それで、わざと作者の名前を偽名を使ったと思います。長屋王に近いお方だと考えられます。

神龜六年己巳、左大臣長屋王の死を賜はりし後、倉橋部女王の作る歌一首

大君の 命畏み 大殯の 時にはあらねど 雲隠ります(巻三 441)

解釈しますと、恐れ多くも大君の命により、まだその時期でもないのにお隠れになってしまわれた、となります。

次に膳夫王(かしわでおう)は、左大臣・長屋王の長子で父子と共に自害されたれたことを悲しんで作られたものですが、作者いまだ不明ですが山部旅人といわれてます。

膳部王を悲傷する歌一首 

世間(よのなか)は 空しき物と有らむとそ この照る月は満ち闕(か)けしける(巻三 442)

解釈しますと、世の中は 空しいものだ。まるで決まったように、この照る月が満ち欠けするようだ、となります。

現在、長屋王夫妻のお墓が奈良県生駒郡平群町にあります。

前述しました通り、長屋王の邸宅跡は百貨店「奈良そごう」が開店しましたが経営が上手く行かず閉店し、平成15年7月、イトーヨーカドー奈良店が開業しました。全国のイトーヨーカドー店舗としては最大規模だったそうです。その後、郊外型の大規模商業施設「イオンモール大和郡山」(大和郡山市)などが相次いでオープンすると、客足を奪われて、今月の9月10日で閉店しました。

インターネット上では「長屋王の呪い」ではないかと、本気とも冗談ともつかない書き込みが多く出ています。

私は「奈良そごう」の時代に、回転展望レストランがあり、よく食事に行きました。閉店したイトーヨーカドー奈良店に代わってショッピングセンター「NARA HEIJO PLAZA」(仮称)として平成30年春の全面リニューアルオープンを目指し改装工事が進められているそうですが、回転展望レストランの復活を願っています。




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緊張と緩和について

緊張と緩和について
直会(なおらい)とは、祭りの終了後に、神前に供えた御饌御酒(みけみき)を神職をはじめ参列者の方々で戴くことをいいます。

古くから、お供えして神々の恩頼(みたまのふゆ)を戴くことができると考えられてきました。この共食により神と人とが一体となることが、直会の根本的意義であるということができます。

折口信夫先生は「古代人の思考の基礎」の中で直会について下記の通り記載されています。

式の祭りの後に、神社で直会といふものをする。其が、今は殆、宴会とくつついてゐるが、昔は神まつり(正式儀式)・直会・肆宴(トヨノアカリ)と三通りの式が、三段に分れてゐた。この三通りの式を、次第にくだいて行ひ、直会では歌、肆宴では舞ひや身ぶりが、主になつてゐる。

直会は簡略化されたものとして、御酒を戴くことが一般的な儀礼となっています。本来は神事が終わり「神人共食」という祭りの延長が直会の意義です。

神職は祭りに奉仕するにあたり、心身の清浄につとめるなどの斎戒をします。祭りの準備から祭典を経て、祭典後の直会をもって全ての行事が終了し、斎戒を解く「解斎」(げさい)となり、もとの生活に戻ります。

50歳代の頃は鶴見神社の宮司と兼務社2社の宮司も兼ねていました。秋の大祭が終了しますと直会が三回も続きました。やっと大祭の緊張がなくなり、直会の宴席と言うことになるのです。しかし総代さんと崇敬者や来賓の人たちと一杯飲むのですが、最近ではお酒の他にビールが出たり、兼務社の近くのブドウから醸造した河内ワインが出たりして、結構酔いつぶれるのです。これが当社と兼務社の二社で直会が行われるのですから体が持ちません。

ところで東洋医学のバイブル『黄帝内経素問』の中に「喜」つまり喜びすぎると「心の臓」が不調きたすとあります。「喜び」という感情なんて、あればあるほど良いことだと思うでしょう。しかし『黄帝内経素問』では、体に良いようにに思える「喜」という感情も、過多になったり、過少になったりすれば体に不調を起こす、と教えているのです。

「喜は気を緩める」と記載しています。「喜」は精神的ストレス、肉体的疲労から緊張を緩和してくれる、といっています。確かに大祭などの重要な神事は強い緊張を強いられます。神事終了後の直会という「喜」は必要です。

しかしこれも直会の席上、飲みすぎて食べ過ぎて「気が緩む」と問題となります。東洋医学では、「喜は心をやぶる」と言って、直会・宴会・飲み会が続いたりしますと五臓の中の「心の臓」に悪影響を及ぼすと考えています。

私か思いますのにバランスです。「緊張」が続くと病気になり「遊興」が続くとこれも病気になります。「緊張」と「緩和」のバランスが大切です。今年で67歳になり老人の仲間ですので当社だけが直会があり兼務社は直会がありませんので助かります。
 

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